せわしなく日々が続いている。
それでも、土日くらいはいつもお湯を注ぐだけでかんせーいってやってしまっているコーヒーを、ペーパードリップ式に変えてみて、お湯を注いで、こし出すのを待って、お湯を注いで、また待ってを繰り返しながら、ぷつぷついうコーヒーを考えている。
働き始めてから毎日まいにち、アウトプットの毎日で、じぶんを毎日絞りきって家路につく。
気づけばiPadを人差し指で触りながら眠りについているなんて夜が多い。
それでも、
程よい緊張感のなかに満足感が流れていて、幸せな環境で過ごさせてもらっているんだなあって思う。
先日、良い言葉を教えてもらう。
「“ 正しい ”という時は“ 一 ”度、“ 止 ”まると書く」
というもの。
ご存知、金八先生の名言である。
「正しい」
という言葉を聞くと、ついつい
「誰しもから認められてもらえる状態」
という感じに聞こえてしまうけれども、そうでもないんじゃないかと思う。
「正しい」
「じぶんの中の信念。曲げられないもの。大切なものの順位」
と考えてみたらどうかな。
毎日まいにち、目の前にやることがあって、一生懸命やっていると、
それが楽しかろうがつまらなかろうが、知らず知らずのうちに、来たボールを無意識に打ち返していることになる。
無意識に体を動かしているとき、ぼくらは「わたし」という意識がなくなる。
つまりそれは、「恥ずかしい」とか「体裁」とか「プライド」とか「理性」とかそういうものだ。
「わたしはこうなので、やります」
「わたしはこうなので、やりません」
そういういろんなことをやる前に「、」の役割を果たしていた「わたし意識」。
その意識が、やることが次々に来る毎日の中では次第に薄くなっていく。
それが良いときもあれば、悪いときもある。
最悪なのは、
立ち止まることではなくて、何か大きな失敗や過ちをおかしてすっ転ぶような止まり方をして、ふっと我に返るとき。
そういうときは、じぶんで立ち止まったわけじゃないから、「あれ、わたしは何をしたかったんだっけ?」と思い浮かんで、わたしという感覚がない状態に突然不安になる。
だから、楽しかろうがつまらなかろうが、できるかぎりわざと、一つ、止まってみる。
たとえばそう、コーヒーをこぽこぽ淹れながら、とか。
たんたんとした動きと風景から、自然と、「わたしは、どんな感じ?」という、自分に対しての How are you ?が始まる。
大地さんは、きちんと立ち止まらないと。すたすた行っちゃうから。
っていつぞや昔付き合っていた人に言われたことを思い出す。
ゆっくりしっとりと流れていく時間が、いまは、それはそれは貴重です。
人生をかっぽしよう
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