Hatena::ブログ(Diary)

AztecCabal このページをアンテナに追加 RSSフィード

最近は近現代史、紛争、国際政治の英語の本ばっかりです。
000000
010000
100001
196708
200001
2004040506070809101112
2005010203040506070809101112
2006010203040506070809101112
200701020304050607080910
200801020309

2006-10-01

Gomadintime2006-10-01

[][]ワシリー・グロスマン(1905-1964)

適当にまとめていたら長くなりすぎたので、別エントリにした。『人生と運命』の内容についてもっと書くべきだろうが、自分はまだ読んでいないので、人の言うことを鵜呑みにして書くのもどうかなと思って。

ワシリー・グロスマン(1905-1964)

ワシリー・グロスマン(1905-1964)。ヨーロッパ最大のユダヤ人コミュニティの1つがあったウクライナのベルジーチェフでユダヤ人の両親のもとに生まれる。大学では化学を修め、卒業後は鉱山技師として働く。

1934年、短編「ベルジーチェフの街で」と、鉱山労働者の生活を描いた小説『グリュックアウフ』を出版。前者はマクシム・ゴーリキー、ミハイル・ブルガーコフ、イサーク・バーベリに激賞される。グロスマンは37年、ソヴィエト作家連盟に迎えられ、次作の『ステパン・コルチャギン』はスターリン賞にノミネートされている(が、スターリンはこの作品を嫌い、リストから外した)。

大粛清が荒れ狂う1938年、前年に逮捕された彼女の前夫で詩人のボリス・グーバーとの関与を疑われ、グロスマンの妻オルガが逮捕された。グロスマンは妻と前夫の子どもをただちに養子として引き取ると(そうしなければ子どもはキャンプに送られていた)、NKVDの長官エジョフに手紙を書いて、オルガは彼の妻でありグーバーとは無関係であると指摘し、妻の釈放を要求した。妻は数ヶ月後釈放された。

1941年6月、ナチス・ドイツはソヴィエトに侵攻し、ソヴィエト側の言う「大祖国戦争」が始まった。ウクライナはまたたく間にドイツに占領された。モスクワにいたグロスマンは、ベルジーチェフに残っていた母親を救うことができなかった。1941年9月、母親のエカテリーナ・サヴェリヴナは、ベルジーチェフに住んでいた3万人前後のユダヤ人の大半とともに、ドイツ軍に殺害された。母親の死とグロスマンが抱いた罪の意識は、『人生と運命』に大いに反映されている。同作のなかで、母親をモデルにした登場人物が息子に宛てて書いた手紙は、東欧のユダヤ人に向けた哀歌として比類なき傑作であると広く認められており、映画監督フレデリック・ワイスマンが『ラスト・レター』というタイトルで劇にしている。

近視で病弱、そのうえ太りぎみだったグロスマンだが、一般兵士として赤軍に志願する。入隊を却下されると、グロスマンは赤軍の新聞『赤い星』に潜り込んだ。まったく戦争向きの人間ではなかったグロスマンだが、誰もが驚くような適応能力をみせ、その勇気と粘り強さは感嘆の的となった。グロスマンは従軍記者として急速に名をあげ、モスクワ防衛戦からスターリングラード攻囲、ベルリン陥落まで、主要な戦闘をすべて報道し、前線で1000日以上を過ごした。グロスマンはユダヤ人のインテリというハンデにも関わらず、将軍から一般兵卒までの心を掴んだ。例えば、シベリア人の無口で気難しい将軍と6時間話し込み、有名な狙撃兵のチェコフには狙撃の現場に同席することを許されている。

グロスマンの戦争報道を一語で形容するなら「愛国的」というのがふさわしいかもしれない。そのためナイトリーの『戦争報道の内幕』ASIN:412204409Xではそれほど高い評価を与えられていない。だが、グロスマンはプロパガンダが頼る政治的なクリシェを避け、入念な描写を行った。加えて、グロスマンは彼が目にしたすべてをノートに書き留めており、その中ではソ連ではタブーだった「異常な事態」(脱走、寝返り、臆病、無能などを指す政治委員の婉曲表現)についても触れている。このノートがNKVDの政治委員の目に触れれば、グロスマンの命は無かっただろう。『スターリングラード』を著したアントニー・ビーヴァーはこのノートや手紙などを編集して"A Writer at War"ASIN:1845950151を去年出版している。

スターリングラードでドイツ軍が降伏した後、グロスマンは赤軍とともに西進した。ウクライナ、ポーランドと進む段階で、グロスマンはナチスが犯した未曾有の残虐行為を認識しはじめる。遂にベルジーチェフに到着し、母親の運命を確認。次いでキエフ近郊のバービヤールの虐殺を知る。グロスマンはトレブリンカとマイダネクにも赴き、絶滅収容所について最初に報道した1人でもある。グロスマンは地元のポーランド農民と森に隠れていた生き残りのユダヤ人に入念な聞き取りを行い、収容所の実態の再構成を試みている。彼の書いた記事「トレブリンカの地獄」はニュルンベルク裁判の資料として使用された。

グロスマンはユダヤ人のジェノサイドについての記事「ユダヤ人のいないウクライナ」を書いたが、『赤い星』に掲載を拒否されている。これにはイデオロギー的理由があった。「全ソヴィエト人民が同じようにヒトラーの下で苦しんだ」というのが党の公式路線であり、ユダヤ人の苦しみを強調する者に対するお定まりの反駁は「死者を分けるな!」であった。とりわけ、地元民がジェノサイドに協力した事例も多数あるウクライナなどでは、ソヴィエト人民がソヴィエト人民を殺害したということになり、微妙な政治的問題も絡んだ。なんにせよ、スターリンはユダヤ人嫌いであり、彼らを信用していなかった。

グロスマンは同じく作家であり、戦争記者としてグロスマンと同程度かそれ以上の人気があったイリヤ・エレンブルグに協力して、ユダヤ人反ファシズム委員会(EAK)のために『黒書』を編纂した。ソヴィエト国内とポーランドでのユダヤ人虐殺を記録した文書である。これも当然出版を許されなかった。

大祖国戦争に対する国際的協力を取り付けるために設立され、ソヴィエト当局も後援していたユダヤ人反ファシズム委員会だが、戦後、体制にとってその意義は失われた。スターリン体制下では国際主義は危険なほどトロツキズムに近い。1948年、ソヴィエト屈指の名優で国立ユダヤ人劇場芸術監督、EAK議長のソロモン・ミホエルスが、ある会合でソヴィエトのイスラエル建国支持の立場を公にした。このイスラエル支持はソヴィエト国内では極秘であり、この暴露にスターリンは怒り狂った。同年、ミホエルス暗殺。さらに、建国されたイスラエルが親米傾向を見せると、スターリンの反ユダヤ主義に歯止めをかける現実的理由は無くなった。

間もなく、党中央委員会から国家保安省にEAK解散の指示が出される。「反ソヴィエト・プロパガンダ」の中心であり、外国の諜報機関に情報を漏らしているというのが理由だった。EAKの出版所、機関紙は閉鎖され、EAK主要メンバーやイディッシュ語作家など、120名のユダヤ人が逮捕された。

死期が迫り、際限ない猜疑心を剥き出しにしていたスターリンは「医師団事件」を妄想する。国際ユダヤ人組織の命を受けて、ユダヤ人を中心としたクレムリンの医師たちが、医療行為に乗じて政府要人を暗殺しようとしたというのだ。医師たちは拷問を受け、嘘の自白をし、死刑を宣告された。

グロスマンもこのユダヤ人迫害の大波に飲み込まれた。53年2月13日、『プラウダ』は一面全面を使って、グロスマンの新作『正義のために』を攻撃した。「思想上の弱さ」、「非歴史的で反動的見方」、「歪曲されたファシズム解釈」などがやり玉にあげられた。この批判の目的はソヴィエト国民にとって明らかだった。スターリンが3月初めに死ななければ、グロスマンの命は無かったという予測も、あながち的外れとはいえない。

グロスマンとソヴィエト体制の関係を簡潔に表現するのは難しい。常に勇気ある反逆者だったとか、体制的文学者がある日を境に苛烈な反体制作家に生まれ変わったとかまとめることはできない。初期作品は社会主義的スタンダードに十分則っているようにみえる。ただ、作家としてのキャリアのはじめから自然主義的傾向──つまり、体制が認めたがらない現実を露わにし過ぎる傾向──をゴーリキーに批判されている。スターリンも『ステパン・コルチャギン』は「メンシェビキ・シンパ」であると宣告している。それでも『正義のために』では、相応のスターリン賛美を行っているようだ。グロスマンがソヴィエト体制の有効性を全般的には信じていたことは確かだろう。グロスマンの世代のユダヤ人にとって、ユダヤ人に対する行政的差別が撤廃された革命体制を嫌う理由はなかった。

スターリンの猛烈なユダヤ人迫害がグロスマンの目を開かせた。グロスマンの友人である詩人セミョーン・リープキンは1946年、友人のイングーシ人一家が戦争中カザフスタンに移送されたことをグロスマンに話し、これがユダヤ人に起こったらどうなるかと尋ねた。グロスマンの答えはそんなことは起こり得ないというものだった。数年後『プラウダ』に「根無し草のコスモポリタン」を弾劾する記事が載ると、グロスマンはリープキンにきみが正しかったと伝えた。

こうして『正義のために』の続編として書かれ、登場人物もある程度重複している『人生と運命』は、前作と大きく性格を変え、別次元の作品となった。多くの批評家が『人生と運命』はソルジェニーツィンの『収容所群島』と並ぶ、もっとも苛烈な共産主義体制批判であると認めている。スターリン時代の全体像を描くという不可能を成し遂げた作品として、並ぶものはないとも言われる。

1960年10月、グロスマンは『人生と運命』を雑誌編集部に提出した。1961年2月、KGBがグロスマン宅に来襲し、『人生と運命』を「逮捕」。手稿、カーボンペーパー、タイピストのコピーから、タイプライターのインクリボンまで何もかもが押収された。だが、リープキンに渡した手稿一部は押収を免れた。

フルシチョフの「雪解け」期ではあったが、これほど明白な体制批判が出版できるはずがなかった。政治局の主任イデオローグであるサスロフは、少なくとも200年か300年は出版不可能であると断言した。結局、ソヴィエト国内で出版されるのは88年のグラスノスチを待たなくてはならない。リープキンがアンドレイ・サハロフの助けを得て、手稿を国外に送り出し、1980年にスイスで『人生と運命』は初出版された。

グロスマンはこのあともさらに苛烈な体制批判である『万物は流転する』などを書いたが、1964年にガンで亡くなった。

参考文献、URL

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証