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 口ひげが、少し愁いを含んだ落ち着きを表情に与えている。

 大阪市営地下鉄の運転士、河野英司さん(54)のひげ歴は20年以上に及ぶ。それだけのことはある趣だ。

 「剃(そ)りたくないですね。人相も変わるし、自分ではなくなるみたいだから」

 ところが、ここ何年か「剃れ」と上司に言われ続けた。従わなかったら評価が下がりボーナスなどに影響したとして、先月おなじような問題を抱える同僚と損害賠償の訴えを起こした。

 なんで地下鉄の運転士がひげを生やしてはいけないのか。

 大阪市交通局にきいてみた。

 訴訟の内容へのコメントは控えるとしつつ、「多くのお客様から『運転士のひげは不快だ。安心して乗車できない。交通局は基準を貫いてほしい』という声を頂いて」いるのだという。

 「基準」とは「お客様に少しでも好印象を持って頂けるよう」にするための「身だしなみ基準」のことだ。

 制服着用の作法のほか、靴下や時計ベルトの色まで制限がある。指輪も両手で一つに限るといった具合でかなり細かい。男性向け基準には、たしかに「ひげは伸ばさず綺麗(きれい)に剃ること。(整えられたひげも不可)」とある。

     *

 お客様って、どこまで「神様」扱いしなければならないのだろう。

 「『お客様が剃れといっているのだから剃れ』は、あまりに『私』を消させようとする発想」と、河野さんの代理人である村田浩治弁護士(56)。

 そもそも、運転士がひげを生やしているだけで「安心して乗車できない」というのはいったいどんな人だろう。その声が「多くの」というほど届くのだとしたら、そっちの方がひげの運転士よりもっと怖い。

 もっとも、そんなお客様にしたところで、おそらく自らの職場では、今度は自分たちのお客様の僕(しもべ)になることを求められているだろう。四六時中どこでも、お客様でいられる人は多くはあるまい。

 時と場所によって、神様になってふんぞり返ったり、僕になって懸命に服従したり。なかなか疲れる。それよりも、お互い「神様」役を演じるのをやめて、いつでも人間同士として接した方が気楽でいいと思うのだけれど。

 河野さんは、ひげだけでなく英会話歴も長い。英語が話せる職員であることを示すバッジ「Please talk in English」もつけている。

 運転席にいるときは乗客と接する機会はあまりないけれど、休憩時間などに、最近増えている外国人観光客から声をかけられる。「大阪城はどっちですか」なんて尋ねてくる。道に迷った外国人客にとって、そこに河野さんが居合わせたことはありがたかったに違いない。神様ではない客への、その僕ではない地下鉄職員からの人間的なサービス。

 「でも、それはアピールしても加点されないみたいです」と本人は苦笑い。

 目の前の困っている旅行者より、何を言い出すかわからない神様気取りのお客様に気を使うのでは本末転倒になる。

     *

 さて訴訟。根拠になっているのは憲法13条だ。国民には生命や自由や幸福追求の権利があり、「公共の福祉に反しない限り」最大限尊重される、としている。ひげも「人格権」などとして保障されると河野さんたちは主張する。

 実は、この「公共の福祉」は、改憲をめざす政権党、自民党が問題視した点の一つ。同党の憲法改正草案では「公益及び公の秩序」に変えられている。

 同党のQ&Aによると、「基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたもの」で「社会生活に迷惑を掛けてはならない」と明示するためだそうだ。

 でも、だれにとってのどんな迷惑?

 自分の権利が侵害されているわけでもないのに、運転士がひげ面だというだけで迷惑顔で苦情をいう神様扱いされたいお客様――。どこにどれだけいるかよくわからない、不気味な空気のような人たちが喜びそうな言い換えだなあ。

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