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真顔日記

三十六歳女性の家に住みついた男の日記

広末涼子に本気で恋をしていた時のこと

上田の日常と妄想

全裸で広末涼子の写真を見てたんですよ。

いや、現在の話じゃなく、中学生のときの話です。実家で見ていた。いまは全裸で広末涼子の写真を見たりはしない。成長したので。

それに当時も、最初から全裸で広末涼子の写真を見ていたわけじゃなく、広末涼子の写真を見ているうちに衝動的に全裸になったので、そこの順序は勘違いしないでいただきたい。私は論理的な人間なので、脈絡なく全裸にはなりません。

さて、そのころの実家は、いわゆる小さなアパートというやつで、扉もふすまだった。

よくもまあそんな状況、ふすま一枚へだてて家族がいる状況で全裸で広末涼子の写真見ていられるよな、と今は思うが、当時はそれ以外の環境を知らないから仕方ない。とにかく日常的に、広末涼子の写真を見ながら全裸になっていた。広末に対しては裸の自分で向き合うしかないと思っていた。嘘はすべて剥ぎ取られるから。

一度、母親がいきなりふすまを開けたことがあった。あれはいまでも、思い出すとウワッとなる。ふすまは開いた直後に高速で閉まった。シャッ!シャッ!という感じ。高速自動ドア。こわばった顔の母親が一瞬見えて、すぐ消えた。その日の夕食の席でも一切ふれられなかった。私も一切ふれなかった。

私がアイドルという存在に本気でハマッたのは人生のうちの短い期間だけで、それは中学時代の広末涼子と遠藤久美子。広末とエンクミ。この二人に尽きる。本気で恋をしていたと言える。

それ以外は要するに「美人」とか「かわいい」とか「エロい」とかいうだけ。自分の人生そのものが賭け金にならない。そして人生が賭け金にならないなら、アイドルに存在意義はない。ファンを狂わせてこそのアイドルなのだ。

具体的な記憶を書いていきたい。

広末涼子の場合、ちょうど早稲田に進学すると騒がれていた時期だった。私は本気で、「俺も早稲田に行く」と思っていた。ちなみに当時1998年、私は中学三年である。田舎の中学生にとって、「早稲田文学」というのは「アメリカ」とか「ヨーロッパ」と同じくらいリアリティのないものだった。それでも行こうと決めていた。

しっかりと計算もしていた。大学は四年間あるらしい。僕はいま中学三年だ。来年の四月、広末が大学一年になったとき、僕は高校一年。ということは、僕が早稲田の一年になった時、広末は四年生だ。大丈夫! ぎりぎり間に合う! 

あのころは「大学」というものの実態が分かっていなかった。中学校と似たようなものだろうと思っていた。だから、同じ学校に行ければ、廊下ですれちがえると思っていた。広末先輩と廊下ですれちがう、そしたら、あとは僕らの運命がなんとかしてくれる。そう思っていた。廊下ですれちがいさえすれば付き合えるはずだ。運命が僕たちを導いてくれるんだから!

子供の妄想は大事なところをすっ飛ばす。「廊下ですれちがう」から「付き合う」までの面倒な細部を、しっかりとイメージする能力がなかった。そこに出てくるのが「運命」だった。

そして、子供の妄想には「取材」という概念もない。だから大学というものの実態を調べようとせずに、中学校のイメージをそのまま適用する。その結果の「廊下ですれちがう」だった。せめて「構内ですれちがう」じゃないかと今は思う。大学の「廊下」には、たいした存在感がないだろう。

遠藤久美子の場合は、『人気者でいこう』という番組を夢中で見ていた。この番組の遠藤久美子は、いわゆるいじられキャラというやつで、眉毛が太いところから、ダウンタウンの浜田雅功に、「おまえ、毛ボーボーやがな」と言われていた。私はこれに本気でキレていた。なんてことを言うんだと思っていた。俺のエンクミに何言ってやがる。ぜんぜんボーボーじゃないだろ!

だから、あの番組を見るのは葛藤と戦うことだった。遠藤久美子が出るから見たい、しかし遠藤久美子がいじられるかもしれない、すると自分のことのように傷ついてしまう、しかし遠藤久美子は絶対に見たい、しかし傷つきたくない、なんであのヤクザみたいなオッサンは俺のエンクミに毛がボーボーとか言うんだ、もっとみんなエンクミがかわいいとだけ言えばいいのに…。

私は遠藤久美子とも本気で付き合いたいと思っていた。どのようにして出会うか。その計画は、広末の場合よりもさらに粗雑だった。私がテレビ局の裏口で待っている。すると遠藤久美子が出てくる。私が「今すぐ逃げよう」と言うと、遠藤久美子がコクリとうなずく。そして二人は手をつなぎ、そのまま遠くの国に行く…。

メチャクチャである。唖然とするほどに粗雑な妄想である。

当時の自分には、遠藤久美子は芸能活動にうんざりしているという前提があった。毛ボーボーと言われるからだ。そして、毛ボーボーと言われる最悪の世界から連れ出してくれる男、それが私だった。二人の辿りつく新しい国では誰も遠藤久美子に毛ボーボーと言う者はおらず、ただただ優しい時間が流れ続ける。

この妄想にはツッコミどころしかなくて、逆にツッコむのが難しい境地に達している。なぜ初対面の私に「いっしょに逃げよう」と言われて、遠藤久美子はコクリとうなずくのか。むしろ即刻、マネージャーを通して警察に連絡するんじゃないのか。そもそも二人でどこに逃げるのか。「遠くの国」というのは具体的にどこなのか。カンボジアか。バングラデシュか。ウズベキスタンか。中学生のお前はパスポートも持っていないし金もないが、どのように国外に逃げるのか。

当時の自分をそうやって問い詰めてみたいが、たぶん「運命」の二文字でゴリ押しされるだろう。運命がパスポートを取って、運命が空港の手続を済ませて、運命が遠くの国の静かなアパートを用意してくれると思っているのだ。ずいぶん事務処理能力の高い運命である。

私は同時期に広末涼子と遠藤久美子に恋をしていた。その一点においてのみ、苦悩していた。大学進学を待って広末先輩と廊下ですれちがうべきなのか、遠藤久美子を毛ボーボーと言われる世界から連れ出すべきなのか…。知るかッ!と今は思う。黒板いっぱいに巨大な文字で書いてやりたい。知るかッ!

数年後、広末涼子は全然早稲田に行っていない、というニュースが出た。同時期にメディアは手のひらを返すように広末の奇行を取り上げはじめ、バッシングをはじめた。だからなのかは分からない。自然と本気の恋は消滅していった。

遠藤久美子も徐々に「好きな女性芸能人の一人」に落ち着いていった。遠くの国に逃げようと思わなくなったし、毛ボーボーと言われていても、「いじられてオイシイな」としか思わなくなった。以来、人生そのものが賭け金になったことはない。