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 プロ野球は歴史上、1年だけ「空白」の年がある。1945年。太平洋戦争の戦況悪化でリーグ戦が中止に追い込まれた。だが、翌46年には再び力強く立ち上がった。戦争の生々しい傷痕が街に残り、食べることに苦労しながらも、野球への情熱は失われることはなかった。当時の選手の証言を基に、プロ野球復活を振り返る。

 大手を振って野球ができる。「素晴らしい時代が来たんだって。二度と生きて野球はできないと思っていたから」。46年6月20日。69年前のその日を、当時21歳、阪急(現オリックス)の新人投手としてマウンドにいた今西錬太郎(90)は忘れたことがない。

 この日、東京・後楽園球場での試合直前に、プロ初先発を言い渡された。体はブルブル震えていたが、得意のシュートでセネタース(現日本ハム)打線を封じた。のちに「青バット」で知られる強打者、大下弘に本塁打を浴び、完封は逃したが、完投勝ち。最終的に通算88勝を挙げたプロ生活の第一歩だった。

 ■自爆演習を経験

 ちょうど1年前は、死ぬ覚悟を決めていた。

 19歳で陸軍に入隊。戦争末期の45年は米軍との本土決戦に備え、今の茨城県鉾田市の海岸線にいた。砂浜に掘った「タコツボ」と呼ばれる穴に潜み、敵の装甲車両が上陸すれば、爆弾を巻き付けた体ごと飛び込む。来たるべき日に向け、人間1人がやっと入れる小さな穴から出入りする演習を繰り返していた。

 約2年間の兵役では、実戦を経験せずに終戦を迎え、大阪府豊中市の実家に戻った。45年秋、プロ野球が復活に向けて動き出すと、強豪の大阪・浪華商(現・大体大浪商高)で投手として活躍した実績をかわれ、地元の阪急に入団した。

 あこがれのプロ。そして、約2年ぶりにリーグ戦が再開した46年4月27日の開幕戦。その特別な日を兵庫・西宮球場で迎えたはずだが、今西は覚えていない。「派手なセレモニーなんて、なかったはず」。戦後の混乱が続き、食うや食わずの時代だ。野球選手がチヤホヤされることはなかったが、娯楽を求めて球場に足を運ぶ人々のため、グラウンドに立ち続けた。

 巨人の沢村栄治、阪神の景浦将らのスター選手は戦死。生きて戻った者も、多くがダメージを受けていた。8球団に監督と選手は約200人いたが、約70人は軍隊から復員してきた。

 豪速球を武器に、43年までの5年間で156勝を挙げた野口二郎は、兵役で右肩を痛めた。阪急でチームメートになった今西は、5歳上の先輩がこぼしていた言葉を覚えている。「昔に帰りたいよ……」。病院に通いながら、技巧派として投げる姿が印象的だった。

 ■遠征先で「闇米」

 今西の新人時代の思い出は「腹が減ったなあ、でした」。試合前に食べるわずかな米に、麦、サツマイモ、トウモロコシを混ぜて、量を膨らませた。常にすきっ腹と戦いながらプレーしていた。

 地方遠征の主な目的は、農家から「闇米」を買うこと。コメは配給制で、自由な売買は許されなかった。仲間で分けたコメをストッキングに詰めてバッグに隠し、警察の目を逃れて自宅に持ち帰った。東京・後楽園球場への遠征時、宿舎は千葉県松戸市。近くの農家から、白米を分けてもらえたからだ。試合の日は、弁当箱に飯をぎっしりと詰め、球場でかき込んだ。今西は「塩を振って食べても、うまかったなあ」。

 新品の野球道具も手に入らない。空襲を免れ、球場の倉庫や選手の自宅などに残ったグラブやバットを集めて使った。新球団セネタースはユニホームがなく、在庫があった阪急のお下がりを譲り受けていた。

 何もなかった時代だからこそ、日本を盛り上げたいという意識が選手に共通していた。今西は「活躍しても、選手は思い上がらなかった。ファンとの距離もすごく近かった」。地方では駅の改札口に待ってくれる人たちがいた。その一人ひとりにサインするのは当たり前の光景だった。

 ■プロへの抵抗も

 46年のプロ野球は計420試合を行い、有料入場者数は約156万人。それまで最高だった41年の約86万人から2倍近くに増えた。それでも、同年に復活した東京六大学などと比べて、注目度は低かった。約3700人。当時のプロの1試合平均観客数だ。

 中日などで通算215勝の杉下茂(89)は「野球は職業にするものじゃない、と僕も思っていた」。

 杉下は出征していた中国で終戦を迎えた。捕虜生活の後、46年1月に帰国。リーグ戦再開を前に、プロ入りしていた東京・帝京商(現・帝京大高)時代の仲間から入団を誘われたが、明大に進み、東京六大学でプレーする道を選んだ。

 戦中、軍事色が濃かったプロへの抵抗感もあった。選手は戦闘帽をかぶり、敵国の英語が消えた。野球を教えてくれた3歳上の兄の言葉も心にあった。「軍隊みたいなところでやるなよ」。その兄は、45年3月21日、特攻隊員として23歳で沖縄の海に散った。

 周囲の説得で、杉下が中日に入るのは49年。当時もまだ、一部のファンに支えられたマイナー競技だったという。だから、今の満員の観客席を見ると信じられない気がするが、繁栄の礎を自分たちが作ったという意識はない。「戦争が終わり、そこにプロ野球があった。野球が好きで好きでたまらなかったから、僕らはやっていた」

 =敬称略(村上尚史)

     ◇

 終戦から70年、日本のスポーツは大きく様変わりした。歴史の一断面を随時、紹介する。

 ■沢村、景浦…戦場で犠牲に

 戦中、野球は「敵性競技」と呼ばれたが、プロ野球は国民の士気高揚を図ることで公式戦を続けた。

 1941年12月に太平洋戦争が勃発し、翌42年に試合前のグラウンドで、軍装した選手らによる手榴弾(しゅりゅうだん)投げ競争が行われた。43年から野球用語はすべて日本語になり、隠し球は「非日本的で卑劣な行為」という理由で禁止された。44年には「日本野球連盟」を「日本野球報国会」に変更。戦時の国家に協力することを目的とし、選手は平日、軍需工場で働き、公式戦は土、日、祝日に主に行われた。戦況悪化で、この年限りでリーグ戦は休止に追い込まれた。

 多くの選手が軍隊に駆り出され、戦場で命を奪われた。その数は、分かっているだけで73人。犠牲者の中には、創生期のプロ野球を支えたヒーローがいた。

 戦前、巨人のエースだった沢村栄治は27歳で、タイガース(現阪神)の強打者・景浦将は29歳で戦死。名古屋(現中日)の投手だった石丸進一は、特攻隊員として22歳で亡くなった。出撃直前、同僚とキャッチボールをして「よし、ストライク10球」。そう言って、戦闘機に乗り込み、南の海に消えたという。

 東京ドームの21番ゲート近くには、戦死したプロ野球選手を慰霊する「鎮魂の碑」がある。これまでアマチュア選手とされていた5人のプロ在籍が判明し、今年2月、石碑に彼らの名前が加わった。

 戦死したプロ野球選手の数は、今も正確に把握されていない。野球殿堂博物館・学芸部図書室の司書、小川晶子さんは「一人でも多くの方を慰めるためにも、引き続き調査していきたい」と話している。

 ■日本語になった主な「野球用語」

<審判用語>

 ストライク    → よし1本、2本

 ストライクアウト → それまで

 ボール      → だめ一つ、二つ、三つ

 セーフ      → よし

 アウト      → ひけ

 ボーク      → 反則

 タイム      → 待て、停止

<規則用語>

 ホームチーム   → 迎戦組

 ビジターチーム  → 往戦組

 ヒット      → 正打

 ファウル     → 圏外

 バント      → 軽打

 ヒットエンドラン → 走打

 スチール     → 奪塁

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