経済至上主義の現代における仏教徒の布施行為とは?
岩波書店「広辞苑」 | 三省堂「大辞林」 | |
■ふせ 【布施】 |
梵語 da-na の訳。 檀那は音訳 人に物を施しめぐむこと。 僧に施し与える金銭または品物。 「お―を包む」 |
(名)スル 〔仏〕〔梵 dana〕 (1)他人に施し与えること。金品を与えることに限らず、教えを説き示すこと、恐れ・不安を除いてやること、また広く社会福祉的活動を行うことをいう。仏教の基本的実践徳目。 施。檀那(だんな)。 (2)僧や巡礼などに金品を与えること。また、その金品。特に、仏事の際の僧に対する謝礼。「お―を包む」 |
■ボランティア 【volunteer】 |
志願者。篤志家。奉仕者。 自ら進んで社会事業などに参加する人。 |
自発的にある事業に参加する人。特に、社会事業活動に無報酬で参加する人。篤志奉仕家。「―活動」 |
―― 考 察 ――
一般に知られる広辞苑や大辞林のような辞書で調べると上のような結果が出ます。 しかし、その意味や本質においては、やはり知ることは出来ません。ともすれば、誤解を招くような上面的な表現が有ります。そこで、本質を知るべく、簡単な例をあげて考察してみます。 |
私が、電車の切符を買おうとした時、手持ちのお金が足りないことに気づき、冷や汗をかきながら、たまたまそこに居たAさんに借りようとしました。 Aさんは「返さなくてもいいよ」「もし君に同じようなことがあったら、そうしてやってね」と笑顔で言って、足りない分の230円を私に手渡し、名前も告げずに足早に去っていきました。 |
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上の文を読んで、皆さんはどうお感じだろうか? 実にすがすがしいお話ですね。仏教に三輪清浄または、三輪空寂という言葉がありますが、Aさんには、まさにこの他人に対する奉仕の心構えの下準備ができていたのでしょう――。 三輪清浄・三輪空寂 「原語トリ・マンダラ・パリシュッディ(tri-man.d.ara-paris'uddhi)、他人に対する奉仕の心構え、物を与え、奉仕する主体(能施)と、奉仕を受ける客体(所施)と、奉仕の手段となる物(施物)と、この三者は空で清らかであらねばならない。驕りがあってはならない。もしも「おれがあの人にこのことをしてやったのだ」という思いがあるならば、それは清らかな慈悲心から出たものではないのだが、このお話、三輪清浄の心から生まれたすがすがしい情景である。 ところがである、Aさんの言った「もし君に同じようなことがあったら、そうしてやってね」という言葉は、三輪清浄のいう奉仕する側の条件提示のようなものを感じるではないか。 これも執着心にはあたらないのだろうか? 施しを受けた当人が、どう思おうが、どう感じようが、後でどうしようが、お構いなし・・・ただ、黙って差し出す・・・という行為が、三輪清浄・三輪空寂の本意なのだろうか? ・・・・・ということは、このAさんのした行為は、何なのだろうか? ボランティア? 布施? Aさんが、布施の功徳を求めたかどうかはさておいて、「もし君に同じようなことがあったら、そうしてやってね」という他者に対しての慈悲心を促したこと、つまり布施のひとつでもある法施も実践したことになるではないだろうか。 財を施すのに法施の心をもってするならば財も法であるに違いない。これは清らかな心であり執着ではないと見たほうが正しいし、また、この時のAさんの笑顔も無財の七施の和顔施に相当するのではないか・・・。 もし、Aさんが、「今度、どこかで会ったら、また返してね」と言ったとしたら、これはもう執着となり、お金を貸したに過ぎない、いわゆるボランティア行為となり、仏教で言う布施の行為ではなくなります。困ったときはお互い様というギブ&テイクに過ぎません。 でも、いつ会えるか会えないかも分からないのに、「今度、どこかで会ったら、また返してね」という言葉を残し去っていくAさんは、やはりすがすがしいですね。
では、ここで、この出来事があった場所や状況を少しだけ変えてみましょう。 Aさんにお金を借りようとした所が、電車の切符売り場ではなく、駅の向かいにあるハンバーガーショップのお店の中だったとします。私である当人は、ハンバーガー代を支払った直後に帰りの電車賃が足らないことに気づき、たまたま傍にいた見ず知らずのAさんに、断れてもともとと、足らない230円を借りようとした・・・・。 さて、どうでしょう、前と同一人物のAさんでも、ちょっと考えるのではないでしょうか。 前の状況下では、何も疑うこともなく三輪清浄をクリアーし、見事な布施行為をしました。 でも、今回は、最初から私に疑いを持っています。 Aさんは、たぶん、不快な感じを覚え、断るでしょう。もし、Aさんが、前の状況のように、私にお金を差出しても、そこにはAさんの笑顔はないかもしれませんね。せっかくの施しも厳格に言うと、布施とは言えなくなってしまいます。 でも、疑いを持ちながらもお金を手渡すこの行為は、現代におけるボランティアという概念で括れば、その精神に沿っています。しかし、Aさんが自分の疑いの心を押し殺し、私を信じ、お金を差し出したとすると、この行為、Aさんにとっての布施行にはなり得ます。 ただし、この布施の行為、どうも与える側だけのご都合だけでは三輪をクリアーしたことにならないようですから、この時点では、ボランティア精神の領域だといえなくもありません。 しかし、私が、困っていることは嘘ではありませんから、この場合、いささか頼んだ場所に無理があったようですから、その借金を依頼する時の姿勢をもう少し考えて行動していれば、例えば、その頼んだ場所が、前のお話のように駅の切符売り場で、しかも、冷や汗をかくまでもないにせよ、ハンバーグを食べた後ではなく、真剣に心から頼んでいれば、Aさんに疑いの心を抱かせずに済むわけですから、奉仕をされる側の私に科せられた三輪清浄の内の所施とは、その与えて頂く側に対する配慮、礼儀、つまり疑いを抱かせないように努力するその姿勢だったことが分かります。 仏教で言う布施行為とは、単なる人助けといった道徳レベル・人道主義レベルのボランティアという単純な無報酬行為と違って、三輪清浄というあくまでも清らかな三つの条件が満たされることが必要だということになります。 しかし、ボランティアって、こんなに個人主義的でいい加減なものだったのでしょうか・・・?
ある宣教師の言葉ですが、キリスト教におけるボランティアは、神の愛に基づく精神に立脚しているため、個人的な見栄や自己満足といった問題を初めからクリヤーしています。 そのため人間の利己性から生じる問題の噴出は少ないのですが、単なる人助けといった道徳レベル・人道主義レベルのボランティアでは、最後には必ず人間の煩悩の問題に巻き込まれることになります。各自において、厳しい自己コントロールが先行しないボランティアでは、道を間違えるような事態が引き起こされます――。 このことから、キリスト教におけるボランティア精神は限りなく仏教徒の布施と同じと言えるようです。 ボランティアという行為も布施という行為も、あきらかにその本質を失ったまま経済至上主義下におけるある種の合理的な相互扶助的なシステムとして、世界中に広まり、根本精神を成す宗教的意味合いを希薄にしているようです。 話を戻しますが、確かに、これ等はそれぞれの心の持ち方で、その三輪清浄または、三輪空寂という宗教的清らかな状況が作り出せますが、高僧ならいざしらず、凡夫衆生には、なかなか難しいことですね。 前のお話が、たまたま、状況が理解しやすく、Aさんは、冷や汗をかいて困っている私を見、一目瞭然、直感で私の困っている状況を判断できたから、困っている人、助ける人、適当な金額、と、それらに三輪清浄という条件が揃ったまでです。こんな言い方をするとAさんには失礼かもしれませんが、Aさんにとって、布施というすがすがしい奉仕行為をさせて頂けたと、言ってもよいかもしれません。三輪のバランス、調和がないと布施の行為は成立しないということになりますね。 ですから、仏教徒は、その布施行為のバランスがとれるように三輪清浄を目指し、布施行をするわけです。 このことから、施しを受けようとする側にも、ある種の清らかな条件が満たされていないとその清らかな布施という行為を受け入れられようはずはなく、布施行為を全うしたければ、ますます、三輪清浄といった状態を、お互いが認識し合える状況を作り出すことも不可欠な要素となってくることに気づくのです。 つまり、後の例のお話の状況下において、私が、決して騙し取るつもりで借金を申し出たのではないということを、Aさんに知らせ示すことをすれば、Aさんは、前の状況下と同じように笑顔で貸してくれたかもしれないのです。 Aさんに不安や疑いを持たせない配慮や努力、これも財施・法施と並ぶ無畏施というりっぱな布施の行為なんですね。これもまた、三輪清浄という清らかな調和状況を作り出すには必要不可欠なことなのです。 三輪清浄という状況がなくても現在言われているようなボランティア活動は成り立ちますが、仏教徒の布施行は、そのバランスを崩すと成り立たなくなります。 三輪清浄が成り立たない布施行為は、まさにボランティア活動に限りなく近く、与える人、与えられる人、また与える物、のどれかが清いだけでは、その布施の精神は全うされません。 ともすれば、執着という語を拡大解釈し過ぎると、「経済至上主義の現代においては、生きていけないではないか・・・」ということになりますね。 仏教で言うところの「執着」とは、あくまでも、「清らかでないものへの執着」と考えれば納得できるのではないでしょうか。 三輪清浄または、三輪空寂という清らかな調和を生み出すための努力を行とし、与える側も、与えられる側も、清らかな心持ちで布施が行われるように、思いやりや配慮をすること、これも特に現代の荒れた社会生活における調和のとれた布施の形として、財施・法施と並んで、ともすれば後回しとなる無畏施も重要な要素となり、見返りを求めない心と同じように、忘れてはならない心がけ、行の部分ではないでしょうか。 |
経済至上主義の現代における仏教徒の布施行為とは?ボランティアとは? |
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ボランティア | 人助けといった道徳レベル・人道主義の立場で、宗教性を排除し、報酬を求めず、自発的に、自由に、自主的に、個人や団体、社会に奉仕しようとする気持ち、様子。お互い様、ギブ&テイク。 奉仕する対象は、個人の想いがあれば、必ずしも重要ではない。 |
キリスト教における ボランティア |
キリスト教におけるボランティアは、神の愛に基づく精神に立脚しているので、仏教の布施行との違いが見つからない。 |
布 施 | 見返りや「もの」への過剰な執着を捨て、奉仕する側、される側、する物の3つと、財施・法施・無畏施の3種の布施のそれぞれを清らかな調和で実践すること。 |
清らかなバランス 三輪清浄 三輪空寂 |
布施というのは、施者・受者・施物の三輪が清浄であり、空寂となっていなければならない.。これを三輪清浄または三輪空寂という。 諸仏のひとつの功徳のあらわれであり、菩薩行なるが故にこのバランス、調和が不可欠となる。 施者、「こうしてやった」ではなく「させていただいた」と受者や諸仏に感謝でき、施しをする対象が的確であること。 受者、「貰ってやった」でなく「頂けた」と施者や諸仏に感謝できること。 施物、施した「もの」が清浄で的確であること。 |
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