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WASTE OF POPS 80s-90s

2016年04月15日

宇多田ヒカルの「花束を君に」「真夏の通り雨」を聴いた。

宇多田ヒカルは2004年から2005年のシングルで、メジャーという枠である一定の音楽性でもって既に大ヒットを出しまくった人としてはかなり実験的な楽曲を繰り出し、結果そこで恐ろしいほどセールスを落とすことになるわけです。
「PASSION」なんか聴いているとBjorkみたいなことをやりたくてやろうとして、でも「売る」ことも意識しなくちゃいけなくて、その葛藤の産物があのイビツな楽曲なんだろうな、とか。

「人間活動」宣言とその後の隠居は、その一連の実験の後に諦めてものすごくベタな「Flavor Of Life」をリリースしたら馬鹿売れしたため、いろいろこのままの流れで続けていくのが嫌になっちゃったからじゃなかろうかと勝手に思っておりまして、隠居後のリリースがDVDシングルと配信のみという形態なのも、「嫌になっちゃう」の元になるチャートアクションをできる限り意識しないでいいスタイルだからだろう、とも勝手に思っております。

で、今回の新曲。
正味新しいことは何もしていないんだけど、メロディーのスケール感は以前と明らかに違う。そして彼女は元から声の震えとかかすれとかブレスとかを敢えて残して録音する方ではあったけれど、より一層そっち方面極まって声の質感がとんでもなく生々しい。「花束を君に」のサビ前に敢えてぶっこまれてるブレスとか、何かこれだけで250円の元取った気持ちになる。

前はBjorkになりたかったんだけど、今はADELEになりたいんだな、と思う。
ただ、前のように楽曲の構成とかアレンジとか表層的なところで近づこうとするのではなく、もっと根本的な「どこまでもオーセンティックであっても、楽曲とプロダクションと歌を突き詰めればどえらいことになる」というところへの共鳴とでも言える部分で。
実際、2曲とももうR&Bでもないし所謂J-POPでもない。ただ商業的なところに乗っかっているという意味での「ポピュラー音楽」としか言えない音楽としてのフラットさ。凝ったアレンジでなくても嫌というくらい伝わる音楽としての豊かさ。

今の日本のポピュラー音楽界でそういうところに本気でカチ込んでいける人は、制作資金面とかレーベルとの距離感とか考えても彼女以外にいないわけで、もう本当にこっち方面さらに極めていただきたいと切に願う次第。この先にもっと「彼女にしか出せない音」がきっとあると思えるんで。ずいずい踏み込んでほしい。

そして多分活動ペースは山下達郎みたいになる。それは仕方がない。