来年もう一度だけライセンスコースの受講を志願しようと思い、それまでの間、日本での現場実績を積む選択肢もあったのですが、このままアイルランドに残ることに決めました。
海外生活の経験がある方はご存知かと思いますが、ビザの切り替えや延長の際に、国によっては一旦国外退去をしてからの再入国求められます。
僕のケースもこれに当てはまり、必要書類を揃えて、フライトと宿の予約も全て済ませて、先日、念のため日本大使館に相談に行きました。
以前にアイルランドの入国管理局で得た以上の情報はほとんど得られませんでしたが、一つだけ、再入国の際の行先にロンドンのStansted空港は念のためやめておいた方がいい、と言われました。
ヨーロッパの空港には、協定を結んでいるユーロ圏内の空港からの旅客に対してのパスポートコントロール(入国審査)を設けていないところが幾つかあり、Stanstedもこれに当てはまるというものです。
そして出国の際の審査もありません。
ダブリン空港も出国の際には審査が無いので、Stanstedとの往復だとパスポートに何も明記されず、”一度国外に退去した”という証拠が残らないということでした。
しかし僕が予約したフライトはばっちりStansted便で、空港に到着後、情報どおりイミグレーションオフィサーたちが見当たらなかったので、念のため税関の人たちに聞いてみたところ、やはりこの情報は正しいようで「フライトチケットを捨てずに持っておいて、それをダブリンの入管で見せろ、グッドラック」とのことでした。
というわけで僕は今ロンドンに来ています。
実に一年半ぶりです。
今回は平日ということもあって、滞在中にはあまり多くの友人に会えないのですが、2、3日くらいなら一人でも簡単に暇が潰せるくらいロンドンは便利です。
街自体の規模が大きいから娯楽も多いし、そもそも住んでいた街なので懐かしい場所を訪れて懐古趣味に浸ることもできるのですが、僕にとって嬉しいのは多くの博物館と美術館に無料で入れるということです。
それらの中のお気に入りの一つに、テムズ川沿いにあるTate Modernという有名なギャラリーがあります。
おそらく最も多くの回数、足を運んだギャラリーですがTate Modernに初めて訪れたのはロンドンに着いて1、2か月後のことで、その時はフラットメイトのコロンビアーナ姉妹も一緒でした。
この姉妹は、出入りの激しい我がフラットに来たばかりの、僕にとっては初めて出来た「後輩」であり、お姉ちゃんの方の美人のカロリーナ(仮名)に
「せっかくロンドンに来たんだから案内するよ。でも全然詳しくないから行き先はカロリーナが決めて」
というよく分からない微風の先輩風を吹かせたのですが、男女間のアレコレに関してビビりな僕は
「あと妹のピーフィー(あだ名。本名は覚えていない)も誘っといて」
とあくまで“恋心からではなく善意から“というポーズで保険をかけて、もともと凪ぎかけていた先輩風も臆病風に変わります。
とはいえ快く申し出を受け入れてくれた姉妹と一緒にそのTate Modernに向かったのですが、館内に入ってからは、特に妹のピーフィーの方がはしゃいでくれました。
ピーフィーはカロリーナとは種違いの妹で、体のサイズも喋り方も幼く、パッと見もじっと見も12歳程度の学童に見える、が実は19歳という、普段若く見られがちのアジア人である僕から見ても驚きの童顔の持ち主です。
初めて年齢を知ったとき「嘘つけまだ毛も生えていないくせに」と心の中で返しはしましたが、そこは南米人特有の体質と文化、黒い腕毛が僕よりも濃くて立派だったので、やはり心の中でではありますが、愛情を込めて、まんま「腕毛のピーフィー」と呼んでいました。
「長くつ下のピッピ」みたいでラブリーです。
実年齢通り20代半ばに見えるカロリーナとその当時ギリ30代前半だった僕と、見た目が6年生の腕毛のピーフィーが三人で歩いている風景は、周りから見たらカップルとその姪っ子、あるいは若くして子供を持ったお母さんとステップファーザーくらいに見えるのかな、という気持ち悪い想像をしたことを今になって思い出して猛省します。
さて、館内は美術館らしく写真撮影が禁止のところが多いのですが、ピーフィーはところ構わずデジカメのシャッターを切ります。
撮影禁止の旨を僕が告げても「大丈夫、係員いないから」とベビースマイルで一蹴してパチリパチリとやり続けます。
そしてそうこうしているうちにやはり係員に見つかって注意を受けます。
とは言ってもそこまで神経質な係員はおらず、注意されて「ソーリーソーリー」で終わりです。
それをいいことにピーフィーはブースが変わるたびに写真を撮っていましたが、彼女の言い分としては「大丈夫。まだあの係員には怒られていないから」というものでした。
つまり彼女の姿勢は、自分のやりたいことは一回怒られるまでやってみて、怒られたら謝る、という合理的なものです。
必須ではありませんが、童顔スマイルの中和力がその戦術の成功をいくらか支えてもいたでしょう。
帯同者のこちらとしては、係員が向かってくるたびに
「ピーフィーほら来たよ もうやめて ピーフィーピーフィー腕毛のピーフィー」
とちょっとハラハラしてましたが、4回目くらいからは慣れたもので「ソーリーソーリー」とこちらも笑顔で係員をかわしていたことを覚えています。
結局ちょっとした保護者の気分です。
と言ってもしつけを放棄した保護者ですが。
一通り、芸術作品よりも腕ピーの振る舞いを楽しんでから、すっかり暗くなった館外に出て三人でテムズ川対岸のきれいな夜景を見ました。
ライトアップされた観光スポットっぽい大きな建物を見て、カロリーナが
「あれがたぶんBig Benだよ」
と言い、相変わらずその土地の名所にうとい僕が、リスニングの音声教材から学んだ数少ない固有名詞の一つだったので、少し嬉しくなったのを覚えています。
が後日、正解はSt. Paul Cathedralであることを知りました。
大外れです。
フラットに戻ってからシャワーを浴び終えたカロリーナが「今日のお礼に」と夕食を振る舞ってくれたのですが、その時に首元に入っているタトゥーを見せてくれました。
スカルがバラを咥えているデザインでした。
「これはロンドンに来る直前にコロンビアで入れてきたの。コロンビアを忘れないように、って思って」
とはにかみながら説明してくれたので、こちらも「へーそうなんだー」とスマイルを絶やさずに応じていましたが、胸中では
「じゃあ何かい。おまえんとこの国花はバラで、ドクロは国鳥とか国獣的な扱いをされているのかい?」
という僕の好物の、しかし異性としてはチョット、な香りを嗅ぎ、僕の中での彼女の扱いはただの「コロンビアン・ビューティー」から「薔薇ドクロのスミねーちゃん」に昇格しました。
かくして淡く膨らんだ恋心が、やはり淡くゆっくりとしぼんでいったというロマンティックなお話です。
ちなみにその後、薔薇ドクロはイギリス人と結婚して、無事男の子も出産しています。
腕ピーの方に関しては、音信不通なのでよくわかりません。
おそらく更にフサフサになった腕毛に小っちゃい虫を絡めとって無邪気に遊んでいるんじゃないかなと思うと、なんだか夢が広がります。
ソーリーソーリー。
結局宿を出る前から懐古談になってしまいました。
腕毛に郷愁心まで抱いてしまったら癪なので、Tate Modernはやめて、今からもう一つのお気に入り、Saatchi Galleryに行くことにします。