映像作家
今村 彩子
「3.11 音のない大震災を取材して」(その1)
●プロフィール
今村彩子
(いまむら あやこ)
名古屋出身/Studio AYA代表
愛知教育大学教育学部卒業
大学在籍中にカルフォルニア州立大学ノースリッジ校に留学し、映画学科・アメリカ手話・アメリカろう文化を学ぶ。
現在、名古屋学院大学・愛知学院大学で講師をする一方、ドキュメンタリー映画制作で国内だけにとどまらず、アメリカやカナダ、韓国など海外にも取材に行く。上映・講演活動もこなしている。
今村彩子監督公式サイト http://studioaya.com/
ツイッター @ayako_imamura
ブログで映画制作や日々考えていることを綴っています。
主な作品
DVD「ユニバーシティライフ
〜ろう・難聴学生の素顔〜」
DVD「サラリーマンライフ
〜ろう者と聴者の共に働く職場づくり〜」
映画「珈琲とエンピツ」 http://coffee-to-enpitsu.com/
CM:トキワ鉛筆「伝えたい」(トキワ/中部日本放送)
〈第48回ギャラクシー賞・CM部門選奨作品受賞〉
ドキュメンタリー映画を撮るようになった理由
私は生まれつき耳が聞こえない。ろう者だ。地元の小学校に通っていた時、友達とのおしゃべりの輪に入ることができなかった。家に帰ってもテレビ番組に字幕がついていないため家族と楽しむことができず、寂しい思いをしていた。そんな時、父が私も楽しめるようにと毎週借りてくれた字幕付きの洋画から元気と勇気をもらった。
しだいに私は映画監督になりたいという夢を抱くようになり、19歳の時に1年間アメリカで映画制作を学んだ。帰国後、ビデオカメラを買ってドキュメンタリー映画を制作している。
私は「聴覚障害者」と呼ばれるけれど、私にとっては耳が聞こえないことが自然である。生まれた時からそうだったから。しかし、聞こえる人を基準に構成されている社会では、聞こえないことは「障害」であり、「聴覚障害者」と一括りされる。私は小さい時から自分が「障害者」と呼ばれることに対してずっと違和感を抱いていた。ろう者も障害のある人も生まれつきであれば、その姿が当たり前。今の社会が障害のない人に基準を合わせてつくられているから生活で不便な思いをするだけであり、不幸なのではない。もし、テレビ番組に字幕をつければ、ろう者もテレビを楽しむことができる。段差をなくし、スロープやエレベーターを増やせば、車いすの人も自由に行きたいところへ行ける。すると、ろう者も車いすの人も障害者ではなくなる。「障害」は人と社会の間にある壁。ろう者も障害のある人も社会に生きる一員であり、壁を壊していこうと、ろう・難聴者を取り上げたドキュメンタリー映画を制作、全国で上映・講演活動をしてきた。12年間で制作した作品は30本になる。ドキュメンタリー制作がテレビや新聞で紹介され、少しずつ社会に知られるようになった。
東日本大震災の取材で東北へ
そんな時に起きた3.11の東日本大震災。その日から、毎日、テレビや新聞で東北のニュースが流れた。亡くなった方や行方不明者の数が日々増えていく。辛い気持ちでテレビや新聞を読んでいる時、疑問が出てきた。『東北にも、ろう・難聴者はいる。しかし、彼らの情報がほとんど載っていない。彼らは無事なのだろうか。支援の手は届いているのだろうか。』伝えることを仕事としてライフワークとして活動している私にできることは被災地にいるろう者の現状や声を社会に伝えることだと思った。そして、震災から11日後の3月22日、宮城県を訪れた。
▲倒れた街灯(仙台空港)
仙台市内は閉まっているお店が多く、ガソリンスタンドには長い車の列が見られた。仙台空港へ行くと駐車場の車が津波で押しやられ、街灯も倒れ建物のガラスも割れて、無事なものが1つもない。自衛隊が車を片付けていて、まるで終戦直後の光景を見ているようだった。
まず、宮城県ろうあ協会の事務所に行った。副会長の話によると、安否確認、支援体制を検討し、進めているが、ガソリンが足りないため支援することができない。携帯メールもつながらず、安否確認がなかなか進まないとのこと。ライフラインが断たれると何もできない。支援しようにもなかなか動けない状態だった。取材中にも余震があり、私も不安な思いをした。
津波の警報が聞こえない
3月24日、岩沼市の避難所にいる2組のろう高齢者夫婦に会った。4人とも顔の半分はマスクで隠れていて表情が分からない。岩沼市に住んでいるKさん(72歳)は地震が起きた時、近くにあるものにしがみつき、収まるのを待った。貴重品をかき集めていたら、近所の人に身振りで、津波が来るから避難するように言われ、夫(78歳)とすぐ車に乗り、家から離れた。
その後、津波が来て家が流された。もし、近所の人がKさんに伝えなかったら、Kさん夫婦は津波にのまれ、死んでいたとのこと。津波警報や避難の放送が聞こえないために命を落としたろう者も実際にいると聞き、やるせない気持ちになった。
▲Sさんの理容店で撮影する筆者
同市で40年間理容店を経営しているSさん(71歳)と妻(63歳)もインタビューに応じてくれた。自宅は新築で被害は少なく無事だったが、Sさんは地震が起きた時、放送が聞こえず、近くの小学校へ避難することを知らなかった。津波で外にも出られず、一晩を自宅の2階で過ごした。翌日、巡回に来たお巡りさんに身振りで避難所に行くように言われて、初めて放送があり、地元の人達は避難していたことを知った。
インタビューを終え、Kさん、Sさんと一緒に住んでいた家へ向かった。Kさんが昭和時代に建てた家はなくなっており、地面のコンクリートや木で間取りがかろうじて分かる程度。Kさんは涙を流して、家があった場所を見つめていた。Kさん夫婦が長年暮らしていた家と日常生活が津波で奪われた。その心境はどんなものか・・・。ごめんね、ごめんねとKさんに謝りながら、私はただカメラを回すしかできなかった。次はSさんの理容店へ。ドアを開けると、泥水でぐちゃぐちゃになった椅子やタオル、床が目に飛び込んできた。壁にかかっている時計を見ると地震が起きた2時48分で止まっていた。
近所の人やお巡りさんに言われて初めて津波のことを知ったKさんとSさん夫婦は避難所でも情報を得られない場面に遭遇する。放送が聞こえないため、食料や毛布などの情報がつかめず、周りを常に見て一緒に動く。疲れて眠ってしまったら、情報から遮断され、食事や救援物資を得る機会を逃してしまう。常に周りを見ていなくてはならず、ストレスが溜まる。Kさんは風邪をひいていて辛そうだった。
ろう高齢者は情報が得られない上に高齢のため体力も衰えている。とても心労は大きい。真っ先に支援が必要な立場だが、聴者も自分のことで精いっぱいで、気づかない。見た目は障害のない人と変わらないろう者は「私は耳が聞こえません。分かるように伝えてください」と自分から周りに伝える必要がある。しかし、津波で家を失い、ショックで気力もなくなり、声にすることもできないろう高齢者の存在を知って欲しい。私はKさんが笑顔で暮らせる日が来るまで、被災ろう者のことを社会に伝えていこうと心に決めた。
- 命を守る情報に格差があってはいけない
- 地域の絆