普段あまりいない時間に家にいて、無音が嫌なので付けっぱなしにしているテレビでは情報番組が流れていた。
その最中に突然入ってきた速報に、私は戦慄した。
恐れていた事が、起きてしまった…
そう思った。
私は知り合いにラインを飛ばしながら、ネット検索をした。
事件の起きた区立小学校は、私の恐れていた事とは違う小学校だった。
震えが止まらない。
夫の親族は、教員が多かった。
親族が集まると、私は「まるで職員室の中にいるようだ」と、感じた通りに口にした。
先生然とした風貌、話し方。
誰々は校長、誰々と誰々は教頭、あの伯父さんは教育委員会に…という具合で、話題も教育問題ばかりであった。
その親族の中で、義母の姉である伯母は中学の音楽教師でプライドが高く、厳しく、毅然とした人だった。
中高時代の夫は非行に走り、やはり教員だった義父母の手にも負えない悪さぶりだったらしいが、厳しい伯母の事だけは成人してからも怖れていた。
この伯母が、もう少しで定年という時に退職を決めてしまった。
指導出来ない男子生徒がいるという理由だった。
「何も、辞めなくても」
「定年まで後少しの辛抱ではないか」
他の親族がそう言って止めても、伯母は聞かずに辞めてしまった。
「私には、あの子が指導出来ない。私には、出来ない…」
そう呟いていた。
親族達は、あの子というのがどういう生徒なのか解っている様子だった。
「子供が、変わってしまった。今までの指導では指導しきれなくなっている」
そういう事を口々に言っていた。
数年後、伯母は病気で亡くなってしまった。
これは、20年以上も前の話である。
私が一昨年、ほんの数ヶ月働いた学童保育室での出来事は、今もトラウマである。
だから子供の事件が起きると、とても平常心ではいられない。
そこで起きた出来事は、在職中も辞めた後も口外してはならない事になっているが、問題があれば提起しなければいけないはずだ。
事件や事故が起こってからでは、遅いのだから。
学童指導員達も、やはりこう言っていた。
「子供が、まるで変わってしまった。今の子は、私達が子育てをしてきた子供とは別物なのよ」
と。
それは、確かに私も感じた。
でも、変わったのは子供だけではない。
親も世の中も変わったのに、変わらないままなのは一体何なのか。
私が学童保育室のアルバイトを辞めたのは、問題山積の現実に自分は何も出来ないのだと思い知ったからだ。
何かが起きた時の責任を負う側になりたくなくて、逃げ出したのだ。
「タンポポさんが辞めてAちゃんもBちゃんも寂しがっているの。あのC君やD君はもう学童にはいないんだから、戻ってきて頂戴」
と言われても、寒気がするばかりだった。
問題児は、いつかいなくなる。数年経てば、卒業してしまう。
教育の場ではそうやってやり過ごし、変化する子供への指導を十分に考えて来なかったのではないのか。
アルバイトは、子供の指導をしてはいけない決まりになっていた。
指導はベテランの指導員が、自らの経験と信念によって熱心に行われていた。
私は指導がしたかったのではない。地域の子供達を、”近所のお婆ちゃん”のように温かく見守りたかっただけだ。
その”お婆ちゃん”を、殴る蹴るする子供が存在していた。
どんな鬱憤があるか知らないが、私はサンドバッグではない。
変わったのは、子供だけではない。
だけど、どうしたらいいのかまるで解らない。