日ソ中立条約締結


 日ソ中立条約は、松岡洋右外相が結んできた。

一九四一年初頭、松岡はまずベルリンを訪問して、ヒトラー総統とリッペントロップ外相に会った。そこで大いに意気投合し、今度はモスクワに向かった。
 モスクワでは、スターリン共産党書記長とモロトフ首相兼外相に会い、これまた意気投合して、日ソ中立条約を結んだ。
 松岡外相は、独ソ不可侵条約と日ソ中立条約でユーラシア大陸北部が安定したので、安心して南方へ進むことが出来ると考えたようだ。

 しかしこれは単なる不可侵条約ではない。
 第一条はもちろん領土不可侵を規定しているが、問題は第二条である。

一方が第三国と戦争状態になった場合、他方は中立を守る規定である。これは危ない規定であった。もしソ連がいずれかの国(この場合はドイツ)と戦争状態になった場合、日本は中立を守らねばならないのである。

しかし一方で日独伊三国同盟では、ドイツが新しい戦争を始めた場合、日本はこれに参戦しなければならない。

今は、ドイツとソ連は不可侵条約を結んでいる。しかしこれは双方の時間稼ぎの一時的条約であり、早晩独ソ戦は始まるものと予想すべきであった。もし独ソ戦が始まった場合、日本はどうするのか。

 

大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間中立条約(昭和十六年条約第六号

大日本帝国天皇陛下及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦最高会議幹部会ハ
両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ強固ナラシムルノ希望ニ促サレ中立条約ヲ締結スルコトニ決シ之ガ為左ノ如ク其ノ全権委員ヲ任命セリ

大日本帝国天皇陛下
  外務大臣従三位勲一等松岡洋右
  

「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦駐箚特命全権大使陸軍中将従三位勲一等建川美次

「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦最高会議幹部会

「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦人民委員会議議長兼外務人民委員「ヴヤエスラウ、ミハイロウイチ、モロトフ」

右各全権委員ハ互ニ其ノ全権委任状ヲ示シ之ガ良好妥当ナルヲ認メタル後左ノ如ク協定セリ

 

第一条 両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ、且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス

第二条 締約国ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ、他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ

第三条 本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク、且五年ノ期間効力ヲ有スヘシ、両締約国ノ何レノ一方モ、右期間満了ノ一年前ニ、本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ、本条約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ

第四条 本条約ハ成ルヘク速ニ批准セラルヘシ批准書ノ交換ハ東京ニ於テ成ルヘク速ニ行ハルヘシ

右証拠トシテ各全権委員ハ日本語及露西亜語ヲ以テセル本条約二通ニ署名調印セリ
昭和十六年四月十三日即チ千九百四十一年四月十三日「モスコー」ニ於テ之ヲ作成ス (署名略)



独ソ戦開始

 

日独伊三国同盟と日ソ中立条約の、いずれを重視するのか

ドイツ軍は電撃作戦に成功し、レニングラード(現サンクト・ペテルスブルグ)、モスクワ、スターリングラード(現ボルゴグラード)に向けて、連戦連勝で進撃をしていた。

ソ連軍は不意を衝かれて前線は崩壊したが、極東の部隊は日本の侵入に備えて西方へ転用できなかった。

松岡外相は狂気雀躍して、北進論を提唱した。ドイツに呼応して、ソ連に侵入しようという主張である。

そのために、ソ連に対して、日ソ中立条約よりは、日独伊三国同盟を優先するという趣旨のことを通告した。

外務省欧亜局の野口芳雄氏の回想によると、次のようである。

「松岡外相は、独ソ開戦にたいする日本政府の態度を、ただしにきたスメタニン・ソ連大使に『日本の外交の基調は日独伊三国同盟にある。三国同盟は他の条約、協定に優先する。これに抵触する条約、協定は日本は遵守する義務はない』と繰り返し言明し、日本は中立条約を守らないであろうとの印象を強く与えた。顔面そう白、あぶら汗をながしながら『貴大臣自ら署名され、そのインクの跡もかわいていない中立条約を、無効であるといわれるのか』と、必死に詰め寄ったスメタニン大使の悲壮な姿が、今もはっきり思い出される」

野口芳雄氏は、ソ満国境に七十万の大軍を終結した関東軍特種演習(関特演)は、極東ソ連軍の西方転用を牽制したもので、「ソ連側としては当然、中立条約の精神に反すると解したであろう」と述べられている。

『北海道新聞』一九六七年十一月三日夕刊一面「あの時のソ連」Dによる。

( 野口芳雄氏は、関西工業倶楽部、大阪経済倶楽部主催講演会にて、「ソ連最近の経済事情 (一〜三)」と題する講演を行なっている。これが日本工業新聞の一九四一年六月四日〜六日附に連載されている。そこでソ連の工業化の進展、とくに極東地域の変化について述べている。多分野口氏は、中立条約の交渉で日本側通訳を務められたのであろう。なお野口芳雄氏は、戦後も一九五六年の日ソ交渉で通訳をつとめられた。外務省退官後は、のち日本海貿易社長となった。北海道新聞の回想の時の肩書である)

 このことは、当時松岡外相の秘書官だった加瀬俊一氏も記憶していて、『加瀬俊一回想録(上)』(山手書房 一九八六年 一七九ページ)で、

「松岡はこの際、ソ連を討つべきだと述べて、陛下を驚かせたらしい。なんと上奏したかは正確には知らぬが、スメタニン・ソ連大使に対し、「三国同盟は中立条約に優先する」と語る――私はこの会談に同席して、大使が顔面蒼白になるのを見た――彼だから、あるいは千載一遇のチャンスと思ったのかもしれない」

と回想している。

 しかし松岡の独断上奏、独断通告に加えて、松岡は日米交渉の打ち切りも主張し、近衛首相の怒りを買った。しかし松岡は外相を辞任しないので、七月十六日近衛内閣はいったん総辞職し、第三次内閣を組織した。

なお昭和天皇も松岡への不信を表明している。一九七六年の靖国神社のA級戦犯合祀以降、昭和天皇は靖国神社へ参拝を中止したが、その一因は、東条とならんで松岡への憤りがあると伝えられる。