アメリカにおけるゲイ・パーティのあり方が変わってきている。Andrew Ryceが紐解く。
Mightyで開催されたHoney Soundsystemの大晦日パーティは、やりたい放題であることが一目瞭然であった。ドラァグクイーン、拘束具をつけた男性、暗がりで様々な性的プレイに興じる人たち(明るみで堂々としている人もいる)、楽しく踊る男女のカップルが数組。セクシャルな熱気と奔放さに溢れ、同性愛者向けの良質なパーティから醸し出される、桃源郷とまでも言える空気感に圧倒された。
しかし特筆すべきは音楽だった。オーガナイザーたちが「アンダーグラウンドのゲイ・テクノの親善大使」と呼ぶDJたちがプレイする、感度の高いハウスやディスコ、テクノ。比較的新しい動きであるこのアンダーグラウンドのゲイ・テクノ・シーンは、北アメリカの同性愛者たちとダンスミュージックを再び結びつけ、ゲイ・パーティを再興させている。アメリカのゲイ・カルチャーを変えているのだ。その夜フロアで会った男性は「Honey Soundsystemが人生を変えてくれたの」と話してくれた。
これまで何年もポジティブなゲイ・パーティを開催してきたHoney Soundsystemの4強DJたちに加え、大晦日のパーティではアメリカ各地のゲイDJがゲストとして呼ばれた。ピッツバーグのHonchoでプレイするAaron Clark、ニューヨークはWreckedのRyan Smith、シカゴのMen’s RoomのJacob MeehanとHarry Cross、そしてデトロイト出身サンフランシスコ在住のCarlos Souffrontだ。全員、ミックス技術やレコード掘りに定評のある敏腕DJであり、安っぽいトップチャートのリミックスばかりがかかり客の大半がセックスの相手を見つけるために来ているような、かつてのゲイ・パーティとは一線を画していた。
決して、セクシーさに欠けるパーティであったわけではない。ただ、これまでとは明らかに違っていた。ゲイ向けのパーティ・シーンの古き良き時代を象徴するような精神に基づきながら、よりモダンであらゆる人々を受け入れるマインドで作られたパーティであったのだ。軸をもったDJたちが最高レベルのテクノやハウスやディスコを新旧織り交ぜプレイするパーティ。世界の名だたるアーティストが目撃する、ベルリン以外では珍しい熱狂的でかなり危ないパーティ。これがアメリカの新しいアンダーグラウンド・ゲイシーンだ。
ずっとこんな魅力的なシーンがあったわけではなかった。これまで、同性愛者たちが安心して集まることができる社交の場として、長らくゲイバーがゲイ・コミュニティーをまとめる役割を果たしてきた。ゲイバーが未だに重要であることは間違いないが、出会い系アプリのGrindrやScruffに取って代わられ、商業主義に堕落し、サーキット・パーティ(註:数日間に渡る大規模なダンスイベント)の台頭を前に縮小していった。このサーキット・パーティはもともとAIDSが危機的に蔓延していた時代にHIV研究のチャリティー・イベントとして始まったが、年月を経て企業スポンサーも付きどんどん大きく商業的になっていき、高い入場料とおもしろくない商業音楽が流れるイベントに成り果てた。新しいアンダーグラウンドはこんなシーンを打破するアンチテーゼとして生まれたのだ。
「ミネアポリスのThe Saloonに行ったとするじゃない? またサーキット音楽が流れてるのよ」Liaisonのブッキング担当であり、DJデュオWreckedの片割であるRyan Smithは言う。「すごく成功したけど、もう長い間ずっと変わってないのよ。もう聞きたくなかった。もっと、アンダーグラウンドで、セクシーで、ダークで、ディープで、ハッピーで、よくわかんないけど、そういうのが聞きたかったのよ。安心してそういう冒険的な音楽を聴ける場所がなかったの」
これまで長い間、アメリカで面白いエレクトロニック・ミュージックを聴きたかったら、ストレート(註:異性愛者)のイベントに行くしかなかった。もちろんいくつかの例外を除いて:ロサンゼルスには同性愛者カルチャーの奇抜な側面にフォーカスしたMustache MondaysやA Club Called Rhondaがあったし、ニューヨークには斬新で最先端なGHE20G0TH1Kがあった。でも最近まで、才能あふれるDJが踊り狂う同性愛者たちを前にエッジーな音楽をプレイする時代なんて、とうの昔に過ぎたと思えていた。
アメリカの同性愛者カルチャーの中心地と言えるサンフランシスコでさえ、ひどい状況であった。しかし、Honey SoundsystemのJacob Sperber曰く、そんな「枯れ地」から、この国を代表する最高のパーティのひとつが生まれたのだという。
Jackie Houseの名でDJをしているSperberは昔、まだ未成年だった2005年頃、DJ P-Playとしてカストロ通り(註:サンフランシスコの有名なゲイタウン)のカフェでDJを始めた。DJブースがケーキのショーケースの隣にあるという、変わった環境でのDJギグであったが、そのおかげで人目を集めた。彼はKen Vulsionの異名を持つKen Woodardとそこで出会い、ダンスミュージックやアートの興味が近く、意気投合した。Sperberはデザインができ、Woodardは雑誌を作ることができたので、二人ともそれぞれが持つクリエイティビティをシーンに注入したいと思っていた。
「なんでハニー(はちみつ)っていうネーミングにしたかって言うとね、カストロのベア(註:ゲイカルチャーにおいて、大きくて毛深い熊のような男性を指す)バーで日曜の枠が欲しかったの」と彼は言った。「で、日曜でしょ、クマでしょ・・・そうよ、はちみつよ!って連想したの。それでそのクラブにすんばらしい企画を持って行ったの、BUTT Magazine級のアーティスティックなやつ。でもクラブは戸惑ってたわ」
アート寄りなコンセプトを押し出すことにバーが戸惑ったのには深い文化的理由があった。週末に客を入れて赤字を出さないことを再優先にするゲイバーは、新しいことに挑戦するのではなく保守的になりがちであり、そのせいで停滞した環境が出来上がり、サーキット・パーティの音楽ばかりがかかるという状況を生み出していた。
振り出しに戻ったSperberは、数で勝負することにし、ForkというパーティでプレイしていたJason Kendigや、Sperberの前衛的な部分に共鳴したレア盤好きのRobert YangやJosh CheonといったDJたちを集めた。そして、Horse Meat Discoを参考にしつつも、より幅広い音楽性を擁し、多様なスタイルと刺激が衝突する混沌としたイベント、Honey Soundsystemを立ち上げた。
「最初は割とぐちゃぐちゃだったわね」Sperberは思い出す。「みんな興味がある分野が違ったの。ハイエナジー・ディスコからハウス、妙ちくりんなものまで。でも来てくれるお客さんがみんな変人だったのよ。ゲイクラブに通ってた時代を恋しがってたの」
Honey Soundsystemのメンバーひとりひとりが違う興味やスキルを持っていた。Sperberはパーティの頭脳としてデザインやクリエイティブ・ディレクションを担当し、DJスタイルには遊び心があった。Jason Kendigはテクノやハウスを縦横無尽に行き来し、ロングセットもお手の物のハンサムなスターDJ。Robot HustleやBézierとして知られるRobert Yangはイタロやハイエナジー、ディスコを好んでかけたし、Cheonはポストパンクや、どこで入手したのかわからない変わった音楽が好きだった。ちなみにCheonはその後、現在アメリカで最もリスペクトを得ている新興レーベルのひとつ、Dark Entriesを創始した。
Honey Soundsystemは、良質の音楽がかかる熱狂的なパーティとして、同性愛者向けでも野心的で尖ったイベントができるということを証明した。コアな客はやはりゲイだったが、それでも性的指向に関わらずサンフランシスコを代表するパーティに成長したのだ。Honeyは世界中から価値あるゲストを招き、ゲイシーンにキュレーションの感覚やバイタリティを持ち込んだ。サンフランシスコの夜の街に必要な、目が覚めるような刺激だった。
「もともとイタリアとかロンドンとかニューヨークにあったエネルギーをこの街に持ってきたの」Sperberは言った。「誰もやってなかったのよ。やってみようと思わなかったの。2007年に初期のゲストとしてTodd Terjeを招いたわ。ドラァグクイーンが明らかに不適切で少し人種差別っぽい曲とかをかけてるようなヘンテコなパーティが彼のアメリカでの初仕事だったのよ。そのときの会場はもう潰れちゃったような変な店。オーナーが住み込みで、妙な乱交パーティとかやってたわ」
「そこからはそうね・・・シーンで何が起こってるのか、みんなが解っていなくてもいいから、みんなが憧れるようなヒーローの存在が必要だと思った。『やだ、彼すごい才能にあふれてるけどあたしの近所なの。ゴミ捨てしてるの見てるからイマイチ憧れられないわ』とか、『あたしの元彼全員とヤってるから憧れられないわ』とかあるじゃない。だから全然聞いたことないような所から素敵なゲストDJを招いたの。100万回名前を聞かされてるサーキットパーティのDJじゃなくてね」
SperberがHoneyを始めていた同じ時期、フィラデルフィアではMichael Trombleyが思惑を巡らせていた。2005年にロサンゼルスから越してきた彼は、「1986年から誰も手をつけてない化石化したゲイクラブ」でRon Morelliと一緒にParadiseというパーティを始めた。イベントは成功し、その後2008年にはMacho Cityへと変貌を遂げた。このイベントもまたレーダーにすら映らないゲイバーで行われた。数ヶ月後、Trombleyは出身地のデトロイトに戻るのだが、この都市もまたサンフランシスコと同じ状況だった。
「良質のアンダーグラウンドなダンスミュージックが聞ける同性愛者向けのスペースがなかったんだ」彼は言う。「残念ながら今でもそうなんだけどね。Macho Cityは、クラブで商業的なポップスを聞くのが嫌だったデトロイトの同性愛者たちを射貫いたんだ」
ハウスミュージックの発祥地とて、ゲイのナイトライフはパッとしなかった。シカゴのゲイコミュニティの中心地ボーイズタウンでも、サーキット由来の同じようなヒットチャート音楽を流すバーが立ち並んでいた。シカゴではダンスミュージックには触れやすかったが、Honeyが持ち帰ってきたような解放感のある空気感と素晴らしい音楽性を持ち合わせたようなスペースはなかった。
「Sidetrackっていうすっごい大きいバーにいたの。そしたらバーテンのアシスタントがね、結構激しくイチャついてた奴らに怒鳴ったのよ」Jacob Meehanが話してくれた。「超性格悪くて失礼だったわ。『道を下ったところにSteamworksがあるぞ』って、男性専用スパに行くよう言ったの」。美術商やギャラリー経営も経験していたMeehanは、Harry+JpegというDJデュオの一人であり、その後Men’s Roomをスタートさせる。
Meehanは、男性同士が臆せず触り合ったりキスしたりすることができるパーティがやりたいと考えていた。彼はボーイズタウンのメインストリートのすぐ近くにWang’sという店があったのを知っており、そこにはAnthony "Ace" Pabeyというバーテンダーがいた。Meehanは彼のキャラクターを買って是非Men’s Roomに欲しいと思った。電話口でさえも、彼の遠慮のないユーモアのセンスが伺えたのだ。控えめな人なら彼の押しの強い無修正トークに戸惑うだろう。既にバーテンダーとして人気を博していたAceはすぐにエントランスに配された。
「エントランスではあたしが厳しいからみんな入場するのに苦労したわ」Pabeyは言う。「一番大事なのは、彼らのスタンスね。見た目なんてどうでもよかったけど、シャイなやつはダメ。あけっぴろげで、ちょっとガツガツしてないとね。そのハングリーさの匂いが感じられたら、入れてやったわ」
ハウス、ディスコ、テクノ、メインストリームパンクやポストパンクまでかかる多様な音楽性に対してはオープンな人がほとんどだったが、パーティのセクシャルな部分には慣れるまで時間がかかった。Pabeyはみんなの緊張をほぐすために何でもやった。マリファナの葉巻を回したり、服を脱いだら酒をおごると言ったり、店の中で「ナニをしゃぶってもいいわよ」と言わんばりに客の股間にショットをかけたりした。
「店の外にできてる行列をいつも煽りに行ったわ」と彼は言った。「外に行って適当なこと言い回って、店に入るためにチ◯コ出させたりね。Men’s Roomに入るにはプロセス踏まなきゃいけないのよ。それで一旦入れても、服を脱いでリラックスするっていうもう一つのプロセス踏まなきゃいけないの。あたしの夢は、そうね・・・みんながもう並んでる時点でヤる気満々になってることかな。ヤりたきゃもうそこでおっぱじめちゃいなさいよ、みたいな」
Men’s Roomでは怖気づいてしまうほどの体験ができるが、ただの乱交パーティではない。イベント名とは裏腹に、性的指向もジェンダーも制限なしで歓迎される(男性性を強調しすぎたイメージをいじってのれん分けしたパーティはFemme’s Roomと題された)。単にセックスがしたい人たちは、男性専用スパのSteamworksで開催されるMen’s Roomに行くといい。そう、Meehanが最初にパーティの構想をしたところから一周してSteamworksでも開催されるようになったのだ。男性専用スパは同性愛者の中でも一部からしか需要がないが、Harry+Jpegが自分たちの音楽スタイルをそういった場に持ち込むことができたという点で特筆すべきであろう。
ピッツバーグでは、誰でもダンスできるHonchoというパーティがゲイのバスハウスを席巻していた。バスハウスと呼ばれるいわゆるサウナは、ゲイであることをオープンにしづらかった時代、AIDSが蔓延する以前の頃の名残であり、若い世代ではもう古いと思われている。そんな中、今最も影響力のあるパーティ、Hot Massが開催されているのがダウンタウンのバスハウス、Club Pittsburghだ。
Hot Massではこのバスハウスの下位階が使われる。ダンスフロア、DJブース、昔から残されている迷路のような暗がりの数々。必要なものだけがあるこのスペースは、もともとAaron ClarkのHumanautイベントのアフターパーティに使われていた。そのとき使用していたイベント会場が法規制により深夜2時で酒の提供を終えると、彼らはClub Pittsburghに移動し二次会を開催したのだ。酒はもちろんなかったが夜通し踊れた。ただ、Humanautは大体がストレート向けのイベントだったので、ゲイ仲間に彼の音楽性やこのイベントに興味を持たせることは「一筋縄ではいかなかった」ようだ。
そんなさなか、ClarkはGays Hate Technoというフェイスブックグループに招待された。ピッツバーグなどといった場所に住み、「ダンスミュージックが好きなゲイなんて他にいないだろう」、「そんなシーンなんて存在しないだろう」と諦めている人たちをつなげるコミュニティとして、Matt Fisherによって作られたものだった。全米にテクノ好きの同性愛者がいると知ることができるだけでも、彼らにとっては十分に心強かった。
「Gays Hate Technoはバラバラに散らばってたみんなをつなげてくっつけたの。今でも活発だしすごい大きくなったけど、最初は『やば!あんたたち実在するの!?』って感じだった」
このフェイスブックグループを通じて知り合った人たちと会ったあと、Clarkはサンフランシスコにしばらく行ってみることにした。そこで彼は、この記事に出てくるほとんどの人と同じく、Honey Soundsystemに触発された。ピッツバーグに戻った彼は、Clark PriceとGeorge d’AdhemarとともにHonchoというパーティを立ち上げた。
Honchoはもともと、時期を2012年のPittsburgh Pride(註:LGBTコミュニティーのフェスティバル)とかぶせようとしていた。企業スポンサーがつく公式イベントのクリーンな雰囲気に真っ向勝負するつもりだったのだ。2階建ての倉庫を借りて、2階にはDJのMike Servitoをブッキング、1階ではドラァグショーやライブを予定した。チケットは飛ぶように売れた。800人以上招待され、300人以上が参加を表明した。これにはピッツバーグのゲイ界の権力者も目をつけ、当局に通報し、パーティは始まる前から差し止めになった。でもClarkは万が一のためにバックアップでClub Pittsburghを押さえていたのだ。
「チケットを先に買ってた人たちだけを入れて、それ以外は入れなかったわ。超即席だったのよ。Servitoは折りたたみテーブルの上でDJしてたし、お酒は下の階から見つけてきたけど、みんな来る途中で氷を買って来てたわ。もうほんと、成り行きね」
それ以来、Honchoはアメリカで最もコントロールの効かないパーティとして有名になった。「自分が誰であろうと、何してようと、周りで何が起こってようと、誰も気にしてないの」。クラークは続けた。「窓もないし明かりも温度もちょうどいいの。時空が歪んだ空間みたいな、異世界。お客さんはすごい敏感で超盛り上がるの。DJは自分のプレイにお客さんが反応してるのをすごく感じる。お客さんはもっともっとって欲しがるから、無視できないし逆に冒険もできるの」
Clarkはバスハウスが潰れずに繁盛するよう、最終的には毎週末イベントを開き実質的に仕切るようになっていた。男性限定であったPittsburgh Pride開催中のイベントを例外として、Honchoには姉妹イベントも含め、あらゆる人を歓迎する精神が根付いている。バスハウスから下の階に降りることはできるが下の階からバスハウスに上がることはできない。望んでいない人が乱交パーティに迷い込むのを防ぐためだ。Men’s Roomと同様Honchoでもセックスしたい人はできるが、良い音楽を聞きながら踊るだけでも問題ない。
もう一人、アートや音楽、性に対するオープンな精神を武器にゲイスペースを取り戻しているのがKevin Kauerというプロモーターである。シアトルのゲイバー、Seattle Eagleで5年もの間開催しているパーティDickslapは、シアトルのナイトライフの救世主と呼ばれるほど人々に愛されている。
実はこのEagleでイベントをすること自体に意味があった。そもそもEagleは、LGBTムーブメントが盛んになったストーンウォールの反乱以降、ゲイたちがカルチャーを培ってきたニューヨークはチェルシーのEagle’s Nestにルーツがある。Eagle’s Nestには絶大な影響力があり、アメリカの主要都市のほとんど、ヨーロッパでも数都市には、Eagleと名付けられたゲイバーがあるほどだった。楽しいバーだが、アートや音楽にフォーカスした店ではなかった。
DickslapはSeattle Eagleに政治的な反発力を持ち込んだ。平日の夜に小さく目立たないパーティを開いていたKauerが頭角を現し始めた2010年ごろ、シアトル市政は取り締まりを厳重化していた。伝統的に同性愛者やマイノリティが多いキャピタルヒル周辺のバーを閉鎖させようと、当局はどんな小さなことでも摘発した。もともとゲイバーを狙ってできた性的及び肉体的な接触に関する古い規制を蒸留酒統制委員会は強要し、セクシャルなもの全てが抑圧された状況にあった。
度重なる罰金や脅しがある中でも営業を続けようと、店内のテレビ画面で流す映像を刺激の少ないものにするなどしてほとんどのゲイバーはやり過ごした。しかしEagleが男性の自慰映像を流していたことを理由に罰金を科され、記事に書かれた時点で、Kauerの堪忍袋の尾が切れた。
「そこでオーナーのKeithが電話してきたの」とKauerは言った。「思いっきり『ファック・ユー』をヤツらに返してやりたいって。ルールを全部破って、何もかもが違法のパーティをしたいってね。あたしたちは大人なんだから、やりたいことはできるの。時代錯誤の法律はこんな前衛的な都市に似合わないわ。男性の乳首も、ケツの割れ目も見せれないのよ? バーテンダー見習いが何か拾おうとしてかがむじゃない、ケツの割れ目が見えたらアウト、違法よ!おかしいじゃない」
Kauerはイベント名自体を「ファック・ユー」と同じくらい挑発的にしたかったので、Dickslap(註:チ◯コビンタ、とでも訳そうか)と名付け、初回には「Seattle Eagle VS ワシントン州蒸留酒統制委員会」と副題をつけた。パーティはすぐに成功を収め、Kauerは戦いに勝った。Dickslapを始めて以降、委員会やその査察官はサジを投げてしまったのだ。
Dickslapで特筆すべきなのは正面切った態度だけではない。メインストリームのゲイバーではなかなか見れない、ProsumerやTin Manといったアーティストが聞ける貴重なイベントだったのだ。シアトルは同性愛者向けの飲み屋には事欠かなかったが、良い音楽を聞けるかどうかという点はあまり重視されておらず、そういう場所は少なかった。
「もしあたしが『ハウスとかテクノとかがかかるすっごい良いパーティで、めちゃかっこいいDJがいて』って話してたとしたら、誰も来なかったでしょうね」とKauerは言った。「だから、Dickslapを始めるときは『全てのルールを取っ払ってめちゃくちゃにするつもり』って宣伝したの。そのおかげで人がたくさん集まったのよ。それで、集まってきたところで、音楽を変えていったの。ここに来て、あたしの世界に入ってきて、このバーにいるんだから、これをお聞き!ってね」
Kauerの努力は、Dickslapを超えてシアトルのゲイ・シーン全体を変えていった。別の月例イベントとしてはMake Out Partyや、同性愛者が多く集まるKremwerkという多目的スペースでBottom Fortyなどもオーガナイズし、Bottom Fortyはその後レコードレーベルとしても確固たる地位を築くこととなった。このレーベルはポートランドやロサンゼルスのアーティストたちを擁し、西海岸のアンダーグラウンドのゲイ・テクノシーンを確かなものに変えた。シアトルのゲイバーは時代遅れでつまらない音楽が鳴る場所から、新しくて面白いものが始まる場所へと羽化したのだ。
「ロサンゼルスのウェアハウス・パーティはいつもいろんな人が入り混じってたけど、ディスコやハウスやテクノをかけるホモ主催のアンダーグラウンドなパーティはなかった」とCruseは言った。「正直言うと、歴史的にはゲイの人たちが創り出し、ゲイの人たちが守ってきた音楽を利用して、ストレートな人たちがストレートな人たち向けにやってるパーティに少し嫌気がさしてたの。差別的に聞こえるのはわかってるんだけど、ゲイがゲイのためにゲイが作った音楽をかけて踊ったり会ったりできる場所があったらいいな、なんて思ってた。どう思われてるかを気にせずに踊れたり、触れ合える場所ね」
New York Times紙の記事が間違った印象を植え付けてしまってから打ち切りになったパーティ、Sarcastic Discoに少なくとも音楽的に影響を受けたCruseは、2012年にグラッセル・パークでSpotlightを始める。いわゆるウェアハウス・パーティだったが少し変わっていた点は暗室を用意したことだ。Christopher Kreilingというアーティストが初回のインスタレーションをしたのだが、「小部屋や、ネオンに縁取られたラッキーホールでいっぱいの迷路のような空間」が何のためにあるのかわからない客が多かったようだ。
「そしたら突然、見られたがりの男がチ○コを出してコックリングをつけるのを別の男に手伝わせたの。それでコンセプトが伝わったみたい」Cruseは言う。「みんなの中で謎が解けたのね」
ProsumerやHoney Dijonなど、同性愛者であるキラーDJたちを多数ブッキングしていることに加え、Spotlightはコンセプト作りが巧みであり、毎回違ったテーマを打ち出した。植木は返品できるものだということを知りCruseはジャングルをテーマにしたパーティを開催した。ホームセンターからトラックいっぱいの植物を運び込み、迷彩柄の暗室に迷路を作った。(その植物のほとんどが返品された。ホームセンターの店員は嫌そうだったが)バレンタインのパーティには、薄汚れた白いバンの座席を全部フサフサのカーペットに取り替え、レザー調の香水をふりかけて、フロアに置いた。後部座席がそのまま暗室への入り口になるようにしたのだ。
「みんなバッテリーが上がるまでライトを点けたり消したりしてたわ。バンの上に乗ってみんな朝まで踊ってたし」Cruseは言った。「まさかそのバンも返品できるとは思ってなかったわ。中からどんどんタバコの吸殻が出てくるし、ルーフに汚い足跡がたくさんついてたんだもの」
確立されたゲイ・パーティーがすでにいくつかあった都市で始まったSpotlightは、こういったアンダーグラウンド・パーティーと、より大規模なものとの違いが明確に解る良き例である。
「数年前にはRhondaとかFade To Mindはゲイ周りの音楽シーンで一番おもしろかったわね」Cruseは言った。「それのおかげでロサンゼルスはダンスミュージックにおいて注目されたし、今でも影響力はある。でも今の時点では、幅広い客層向けになってる。Rhondaはいつも由緒正しい会場だから、ある程度のルールには沿わなきゃいけない。Fade to Mindはもっと若い層ね、だからそこまでセクシャルな熱気はないの。ウェストハリウッドも選択肢ではあったけど、あたしの友達はあんまりそこのクラブに行きたがらなかったわ。空間も人もみんな同じような感じで全然冒険的じゃなくて、音楽も童謡かってくらいひどかった。つまりそれぞれのシーンの間に隙間があったから、何かを作ってそこを埋めようとしたの」
ここまで挙げてきたパーティはそれぞれが違うところから派生し、それぞれ異なる形で運営されているが、どれもが共同精神を大事にするという点で共通する。どのパーティに行っても、いい音楽、いい音質、自由、あらゆる人を受け入れる懐の広さを感じるだろう。ProsumerみたいなDJがツアー回りをするとしたら、少なくともこのパーティの中の1つか2つは入ってるはずだ。Ryan Smithに言わせれば、「アンチ・サーキット・ツアー」だ。
「もはやムーヴメントね」Smithは言う。「こういうことが起こってて、可能だって証明されたことに誰かが気づいてから、『どうやって始まったの? 成功の秘密は?』って色んな人が話し始めたのよ」
「ディスコの時代から、ゲイ・コミュニティは明らかにダンス・ミュージック・シーンの重要な要素だったのよ」Kauerは話す。「でもそれって、時間が経って過去を振り返ってようやく認識されることが多いの。ここ数年は同性愛者のクリエーターや、ダンスシーンで色んなことを考えてる人がもっと前に出てきて、認知されて尊敬されるすごくいい時期だったと思う。この国のどんな隅っこの町でも、どんなに少なくても一人は、アンダーグラウンドを面白くしようと一生懸命頑張ってるホモがいるのよ」
北アメリカには、良い音楽といい空間を提供しているゲイパーティが他にも、この記事に書ききれないほどたくさんある。Victor RodriguezとChris Bowenは、Cruseが開くウェアハウス・パーティよりも敷居の低い、Cub Scout、Bears In Space、Father Figureといったイベントをシルバーレイクやイーストハリウッドのバーで開催している。その他にもニューヨークではCarry Nation、クリーブランドではIn Training、オハイオ州コロンブスではMidwest Freshなどが開かれている。アトランタではVicki Powellが最高に盛り上がるパーティを開催する。一方カナダ・バンクーバーでは、下品なパーティとして物議を醸したBackdoorというパーティがある。それ以外にも、こういったパーティは多数開催されているのだ。
アンダーグラウンド・ゲイ・シーンは勢いを増しており、どんどん新しいつながりを見つけていく。昨年はSpotlightがHonchoのAaron Clarkをゲストとして呼んだし、さらにChris Cruseは自分仕切りのHonchoをピッツバーグで開くことになっている。The Bunker New Yorkは2015年のNew York Gay Pride期間中にAll-American Prideを開催した。Honey Soundsystemの離散者たちは、アメリカの各都市で彼らの強みであるアート寄りのゲイパーティを広めている。昨年にはデトロイトのMovement開催中に、Macho CityがHonchoとSpotlightとWreckedとタッグを組み、Club Toiletで自称「フェスティバル・ウィークエンド・クソ祭り」を開催して、その週間で一番良かったと好評を得た(もしかしたら今年もあるかもと噂されている)。
「Honchoを始める前は、部屋いっぱいのゲイたちがハウスとテクノで踊り狂うことになるなんて夢にも思わなかった」Aaron ClarkとともにHonchoを主催するClark Priceは言った。「どっちにしてもピッツバーグでとは思ってなかった。元々エレクトロニック・ミュージックなんてほとんど触れたことがなかった人たちが、今ではミックスをアップロードしたり、レコードを買ったり、あたしたちが呼ぶDJたちを本当に楽しみにしてくれてるの」
「最初始めた時には本当にまだ初心者って感じの友達が何人かいたわ」とMeehanは言った。「でも今は『今まで気づかなかったけど、あたしディスコ好きなの』『そんなの当たり前じゃないおバカ』みたいな感じでみんな慣れてきたわね。なんとなく、まだ知らない人にみんなで教えたりしなきゃいけない、っていう空気になってきてるのよね。ディスコの楽しさを教えることだったり、フロアでフェラしてもいいって見せることだったり」
「Honchoとかここで話したパーティとかは、20代後半から30代にかけての、ナイトライフにもう少し刺激が欲しいと思ってる男性たちの集まりなの」Meehanは続ける。「AIDS危機でなくなってしまったセクシャルなパーティをもう一度夢見た人たちなの。シーンにとっての最初の障害はそれね、AIDS危機がクラブでの性行為に直結していると思われたこと。その危機も収まった90年代後半、今度はストレート・カルチャーに溶け込もうとしていくようになって、結婚という新しい選択肢も出てきて、いわゆるゲイコミュニティが画一化していったの」
「同性愛者のカルチャーには魅力的な活気があって、普通になろうともがくなかで失われてしまうには惜しいの」Cruseは言った。「外野に長い間いたから、自分たちのやりかたが見えてきたの。ストレートの人たちにも見習って欲しいわね。ストレートだからって、他のストレートがやっていることをやる必要はないのよ。自由なのよ。やりたいことをやればいいの。結婚して、普通に仕事をしてもいいし、暗室があるクラブでイケないことして朝まで踊り続けてもいいのよ」
「フェスに行ってもフロアでチ◯コはしゃぶれないわ」Sperberは付け加えた。
これらのパーティはゲイの男性向けではあるが、性的マイノリティの人全て、そして寛容的なストレートの人たち全てが安心して楽しめる場所であろうとしている。Honey Soundsystemの大晦日パーティは服を着ていたり裸だったりのゲイの男性にかなり偏ったパーティだったが、ストレートのカップルや女性の同性愛者が楽しめる懐もあった。そしてゲイの男性客たちも、様々な容姿やライフスタイルの人が集まっていた。こんなイベントはいにしえのゲイシーンから派生しているものだが、時代遅れの偏見を打ち砕いてもっとモダンでウェルカムな雰囲気を出している。
「女性が来やすいように、Honeyも意識的に努力したのよ」Sperberは説明する。「DJ Sprinklesを呼んだときなんか、Honeyに行きたがらない彼氏の分までチケット買う女の子たちがたくさんいたのよ。Honey史上最もストレートのカップルが多かった回だったけど、盛り上がりがハンパじゃなかったわ。セクシャルなエネルギーが緩和されるから、音楽にもっと集中できるの。嫌がるオネエもいるわね。クラブに行くことや音楽や人生についての不安要素が何なのか見極め直さなきゃいけないんだもの。ゲイってだけで特別扱いされる時代は終わったし、それはいいことだと思うの。自分たちの聖域でその特別感を持つことは必要だけど、Honeyは誰もが楽しめて、且つあたしたちの良さを体現できる場所にしたいの」
北アメリカの同性愛者たちが、ベルリンやロンドンなど海外ではなく自分たちの属するコミュニティの中で刺激を受けられる状態になっているのは、随分と久しぶりのことである。最近はその逆パターンもあり、ベルリンのPanorama BarではHoney Soundsystemが フィーチャーされた。一方で、Bearracudaのようなサーキットパーティも、Sperberをブッキングしたりと、ジリジリとこちらの世界に進出してきている。ニューヨークのOutputは、最も成功し続けているパーティとSmithが言うHorse Meat Discoを月例パーティにしている。Honey SoundsystemやMacho Cityや、それに影響されたパーティのおかげで、北アメリカの同性愛者たちは何十年も前に自分たちが作り出した音楽シーンにおいて再び大きな地位を取り戻すことになったのだ。
「多分たくさんの人がベルリンに行ってアメリカに戻ってきたとき『あぁ、あんなパーティしたいわ』って思ったと思うの」とSmithは言った。「Berghainとかに行って、戻ってきたら『なんであんなクラブがないのかしら』って思うのよ。でも・・・実はあるのよ!法律とか規制が全然違うから、ベルリンと違って24時間ぶっ続けみたいなのはできないかもしれないけど、できる範囲でやれることはやっているわ。そしてみんなで楽しい時間を過ごしてるのよ」
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