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 旧日本軍による捕虜虐待を描いた米国映画「不屈の男 アンブロークン」(アンジェリーナ・ジョリー監督)が日本各地で順次公開中だ。映画の題材となった事例だけでなく、戦時中、市民も虐待に加わった事件が東京で起きていた。日本では「加害の記憶」の風化が進むが、米国では遺族が悲しみを受け継いでいる。

 東京でその事件が起きたのは敗戦の6日前だった。

 1945年8月9日の昼すぎ、立川市の錦国民学校(現・第三小学校)の校庭に詰めかけた数百人の市民は殺気立っていた。「やっちまえ」「殴らせろ」。当時6年生で、現在も市内に暮らす狩野義男さん(82)は群衆の中にいた。

 視線の先に、目隠しをされた米兵が柱に縛り付けられていた。狩野さんや、戦後に作成された連合国軍総司令部(GHQ)の資料によると、人々に竹の棒が渡され、憲兵が見守るなか次々に米兵をたたき始めた。狩野さんを含め児童らも暴行に加わった。「米軍の空襲が相次いで、みんな『このアメ公』って頭にきていた」という。

 米兵の名はセラフィーノ・モローン軍曹。B29爆撃機の乗員で、前日に東京上空で撃墜されてパラシュートで降下したところを拘束された。

 虐待は2時間続いた。当時、工業学校の生徒だった浜田雍厚(やすひろ)さん(84)も暴行の列に並んだ。終わるころには軍曹は全身が赤紫に腫れ、血がにじんでいた。「ぐったりした米兵に、だれかが日本酒を吹きかけると、ビクッと体を震わせていた」。その後、憲兵らは軍曹を近くの寺に連行。首をはねて殺害し、墓地に埋めた。憲兵隊は軍曹が撃墜時に死亡したという虚偽の報告書を作成した。

 事件は、その後のGHQの調査で明るみに出た。憲兵隊の責任者は戦犯裁判で、終身刑を言い渡された。「罪に問われるのではと、住民は口を閉ざし続けた」と浜田さんは語る。

 「立川市史」に事件の記載はない。市民団体が1980年代にまとめた戦争体験の記録集などに、当時の自治会長らの証言が残る。

 「アンブロークン」上映が決まるまで、日本国内では反発の声があがるなど、加害の歴史を語りにくい雰囲気が一部にある。

 2人は取材に応じた理由を「敵を憎むように教えられ、当然と思い込んでいた。それがあの時代の事実だから」と話した。(西本秀)

 ■米兵おい「そういう時代だった」

 米東部ペンシルベニア州に住むフランク・モローンさん(73)の玄関脇には、幼い自分と若き叔父のセラフィーノさんが並んでいる写真が飾られていた。

 「この時の記憶はないんだ。後ろの教会はかすかにおぼえているけれど」

 手元にはセラフィーノさんから母親にあてた手紙が残っている。日付は1945年8月6日、東京で殺害される3日前。便箋(びんせん)2枚が文字で埋まっていた。〈あまり手紙を書いてなかったけど、母さん、みんなにもハローって言っておいて〉

 フランクさんは叔父殺害について親類から聞いていたが、虐待の上に殺されたことは、記者から知らされ、初めて知った。

 「叔父は、米軍のすべての爆撃の罪を負って、罰せられたということか」

 そして続けた。「しかし、怒ることはできない。もう戦争は終わっている」

 セラフィーノさんの弟は数年前になくなった。「彼は決して日本車を買わなかったが、私はホンダに乗っている。盆栽が好きで、裏庭を日本庭園に改築しようとも考えているんだ」

 それでも、取材前日に「アンブロークン」をテレビで見て、心を乱された。なぜ、という思いは残る。

 もし、事件に関わった人たちに会ったら。そう問うとフランクさんは自分に言い聞かせるように話した。

 「その人たちに、正しいことをしたと思うかと聞いたら、きっと、いいえと答えるだろう。あの時は、そういう時代だった。戦争で何が起きたのか、日本の人々はきちんと理解していると確信しているよ」(ランカスター〈米ペンシルベニア州〉=真鍋弘樹)

 ◆キーワード

 <捕虜虐待> 太平洋戦争中、日本側に拘束された捕虜は劣悪な待遇や暴行を受けた例があり、東京裁判の判決によると、捕虜となった米英の兵士ら約13万人のうち約3万5千人が死亡した。B29爆撃機の搭乗員らの殺害も、東京に加え、千葉や名古屋など各地で起きた。映画「不屈の男 アンブロークン」は捕虜となった実在の米国の陸上選手をモデルに、収容所で受けた虐待を描いている。

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