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ライフハッカー編集部ライフハッカー編集部  - ,,,,,,,,,  10:00 PM

大江千里さんインタビュー。47歳でニューヨークにジャズ留学した理由と現在の働き方とは?

大江千里さんインタビュー。47歳でニューヨークにジャズ留学した理由と現在の働き方とは?

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マンハッタンにあるジャズバー「The Jazz gallery」で演奏する大江千里さん(2015年)(c) Takehiko Tak Tokiwa


1983年にメジャーデビューをして以来約25年間、第一線で音楽活動をしていた大江千里さん。2008年、47歳にして長年の夢だったジャズ留学で渡米し、音大卒業後に全米デビュー。現在もニューヨークを拠点に活動しています。

そんな大江さんに、留学のきっかけやジャズにかける思い、ニューヨークでの働き方などについて話を聞きました。

大江千里(おおえ・せんり)
1960年生まれ。ニューヨーク在住のジャズミュージシャン、作詞作曲家。1983年にシンガーソングライターとして日本でデビュー。2007年までに45枚のシングル曲と18枚のオリジナルアルバムを発表。2008年にジャズミュージシャンを目指し渡米。ニューヨークの音楽大学「The New School For Jazz And Contemporary Music」に入学し2012年に卒業。その後、自身のレーベル「PND Records & Music Publishing」を設立し、全米デビューを果たした。


どの時代の経験もすべてが今の自分を作っている


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ブルックリンにある大江千里さんお気に入りのカフェにて


── 日本ではミュージシャンとしてどんな毎日を送っていたのですか?

大江:作詞作曲をしてアルバムを制作して、プロモーション活動してツアーをやって、休んでまたアルバムを作ってツアーをして...というサイクルでした。

その合間に役者や司会の仕事をしたり、本を書いたりもしましたね。すべてがクリエーションという意味でリンクし、音楽制作にも良い影響を与えてくれるので、何でもさせてもらえる喜びを感じていました。

2008年にニューヨークに来て、ポップからジャズに血を入れ替えないといけないとしゃかりきになっていたときがあったんですけど、これまでの経験がすべて今の自分を作っているから、ほかのジャズミュージシャンにはない味が僕にはあるんだろうなって思えるようになって、気持ちが楽になりました。

──昔と今を比べて、曲作りに違いはありますか?

大江: 曲を作ろうと思い立ったら歌詞もメロディーも即席で何曲も作るのは今でも変わっていません。違いと言えば、昔はカセットでしたからテープをガチャッとセットすることから始まりましたが、今は逐一譜面に書いていきます。インストの曲のメロディーと詩を同時に書く場合もあります。そのほうがメロディーの持っている情景を自分で把握しやすいです。ジャズに関しては、ほとんどこのスタイルです。

当時は120分テープにガ~っと吹き込んでいました。「もうこれ以上書いてもダメだ」となったら休んで「やんなきゃ」という時期が来たらまた戻る感じです。夜中に書いたラブレターを後で読み返すといろんなことが客観的に見えてくるでしょう。それと一緒で、曲も少し時間を置いたほうがいいんです。


人生はアクシデンタリーな出来事で花開くことが多い


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2016年7月5日にはジャズミュージシャン転身後通算3枚目のアルバム『Answer July』をリリースする大江さん。「今日も進行中の案件のやりとりをすませて、ここに来ました」


── アメリカに来てからご自身のマネージメントはどのように変わりましたか?

大江:日本では大きな事務所とレーベルに所属していましたので、仕事が全部お膳立てされた中で僕は作ることだけに集中できました。今は全部自分でやっています。たとえばブッキングとかフライヤーのデザインなども自分で楽しんでやっています。

── ニューヨークにはジャズ留学でいらっしゃったんですよね。恵まれた日本での生活を手放すことに戸惑いはなかったですか?

大江:手放すという感覚はなかったですね。とにかくジャズを学べる喜びでいっぱいだったので。

ジャズは10代の頃からずっと興味がありました。学んでは諦めての繰り返しだったので、死ぬまでに一度腰を落ち着けてきちんと学びたいと思っていました。

── なぜジャズを諦めていたのですか?

大江:諦めるというか、ずっと引き出しにしまい込んでいたような感じです。とにかくポップスの世界でどんどん忙しくなっていったから、目の前にあるチャンスに食らいついて物にするのがそのときは大事だと思ったんです。

それと歌もそうですが、そもそも僕が歌うはずではなかったんです。作詞作曲が好きでポプコン(ポピュラーソングコンテスト)に応募したら、地元のヤマハの方が「君が歌ってみれば?」と言ってくださったんです。僕が作る曲はジャズやボサノバの影響で転調も多く、自分が歌ったほうがニュアンスが出るだろうという意図があったようです。

人生は思いもかけないことやアクシデンタリーな出来事で花開くことが意外と多いですよね。たとえば、役者では芽が出なくても逆にマネージメントにまわった瞬間道が開いた、とかいう話をよく聞きます。元々の夢から丸々乗り換えるという意味ではなく、光の設定や照明の当て方を少し変えてみることも大切だったりしますね。

だから、僕がシンガーソングライターになるきっかけもアクシデンタリーだったんですよ。

── そもそもジャズを好きになったきっかけは?

大江:地元の中古レコード屋で、ジャズピアニストのウィントン・ケリービル・エヴァンスなどのレコードを見つけて買ってみたら、それまで聴いたことがない響きやリズムが格好良くて、それからのめり込みました。15、16歳のときです。

独学で始めたんだけど、当時の僕にはポップの方でどんどんチャンスが来ていたので、ジャズの勉強はとりあえず引き出しにしまっておくことにしました。でもずっとジャズは好きでした。

── その14年後の2008年、47歳のときにジャズ留学を果たしたわけですね。一歩踏み出すきっかけは何だったのですか?

大江:実は当時、映画音楽をやらせてもらったり別の映画の主演の話がきたりと仕事は割と順調でした。片や、ふとしたときに「ジャズを学びたい」という思いも頭をもたげていました。

ある日、ショーウインドーに自分の顔がパッと映ったとき、充実しているはずなんだけど「どこか笑顔が笑顔じゃない」って思ってしまったことがあって。「底抜けな笑顔で50歳を迎えたいなぁ」と思ったとき、ふとインターネットでニュースクールを検索してみたら、デモテープを送付すれば国外からも受験できるとわかりました。

ジャズの師匠である河上修さんに相談したら「やろうよ!」って言ってくださって、河上さんがベース、僕がピアノを弾いてサックス奏者のチャーリー・パーカーとかソニー・ロリンズとかの曲を録音して送りました。それが夏の終わり頃です。

そうしたら「Approved」と合格通知のメールが来たんです! マネージャーに恐る恐る相談すると、「昔からジャズをやりたかったのを知っています。人生で最後のチャンスだと思うのなら、全部仕事をキャンセルします」と後押ししてくれました。


夢に向かって一所懸命あくせくしている毎日こそが夢


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留学が決まったときに集団生活に不安を感じたこともあったが、「当時、幻冬舎で編集者をしていた友人の山口ミルコさんや歌手の渡辺美里さんにお祝いしてもらって、引くに引けなくなってしまいました(笑)」と留学直前の心境を振り返った。


── 2008年の1月から音大に通い始めたんですよね。実際どうでしたか?

大江:日本では若い気持ちのまま大江千里という偶像になりきってやっていたのに、こっちに来たら素の自分に戻りました。周りの若い同級生はジャズの土壌で育った優等生。片やそれとは対照的に自分のフレーズはジャズにならず、その差に愕然としました。

それに最初の学期で老眼が始まりましてね。腕や肩の故障もあり若い同級生のように無理がきかない。これは、亀になって時間をかけて知識を刷り込んでいこうと決め、地道に練習を重ねた結果、卒業するのに通常より長い4年半かかりました。

卒業して全米デビューを果たしても、まだジャズ山の麓にいるわけですが、粘って卒業したというのは自分の中で1つの礎になっています。今も忙しい日々に追われて「危ない危ない。また練習をしっかりやらないと」って思って再びピアノに向かうと、前に気付かなかったことがわかることがあります。一生その繰り返しでしょうね。練習は生涯続いていきます。

── 集団生活が苦手だということですが、うまく乗り越えられましたか?

大江:最初は僕だけうまくピアノを弾けないから同級生が誰も相手にしてくれなかったんですけど、できることが増えてくると自分の子どもぐらいの年の子が自分のことのように喜んでくれたりしてだんだん友人が増えました。

今はほとんどの同期がそれぞれの国に帰りましたが、その国に行くことがあれば一緒にライヴをしようという話題にもなるし、同期は一生の宝物ですよ。彼らは今25歳ぐらいなので、「俺も四捨五入して30引くと30歳だよ。そろそろグラミー狙わないとな」とかふざけあったりね(笑)。

── 卒業するまで諦めなくて良かったですね。

大江:本当にその通り。夢を見るのにお金はかからないですから。夢に向かって一歩を踏み出す、それも別の形の夢なんですよね、夢に向かって一生懸命あくせくしている毎日こそがすでにもう1つの夢なんです。

今振り返ると、ふとネットで音大を検索してから3、4カ月で人生が激変したんですが、そういう変化の時期に鳴っていた心のアラートを逃さなくて良かったと思います。

自分の中には「50歳まで粘ってプチリタイヤして、それから学ぶのでも遅くないんじゃない?」って言うデビル千里と、「いや今しかないのでは?」という直感を信じる自分がいました。

人生の次のチャプターで行くべき場所が、照明が落ちたステージにあるスポットライトをあてられたピアノのように見え、「今行かないとその席にはもう一生座れないんじゃないか」という本能的な危機感と閃きがありました。そしてそれは見事に当たっていました。50歳まで待っていたら、体力的にもっとキツかったでしょう。


大阪、東京、ニューヨーク。その都度人生のページがめくられていく


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日本でも定期的にライブを行っている。毎年開催されているジャズのビッグイベント「東京Jazz」にも出演(大江さんは左端、2013年)


── 卒業後に日本に帰国することは考えなかったのですか?

大江:僕は大阪で生まれ育って東京に行き、その次にニューヨーク。その都度、自分の人生のページもめくられていくから、戻るという選択肢はなかったです。人生も50年過ぎてあとどれくらい生きられるかなって考えると、今日1日が人生で最後の日だと思いながら大事に生きたい。だったら何ができるかわからないけど、「アメリカでチャレンジしてみよう」とごく自然に思いました。

── ニューヨークでジャズミュージシャンとしてデビューして、マネージメント面はどのように変わりましたか?

大江:こちらでは身の丈以上のことをやらないようにしています。大規模な活動になると大手の会社に属さないとできなくなるから、もうそれはやらないようにしようと。身軽なままがいいってことです。

例えるならば、1日30食しか出さない小さな蕎麦屋。だけど味は落とさない。しっかり暖簾を守ってやっています。自分で店の前を掃除したり、近所に回覧板回したりもしながら。

そうするとすべてがやりやすいんです。僕のジャズを聴いてもらうことが今大事なことだと思ったら、そこでギャラのネゴシエーションにエネルギーを使わずに、プロモーションだって割り切って「顎足付きだったらできますよ」などと自分で即決できますから。

── ニューヨークでジャズミュージシャンとして活動するにあたって大変なことは何ですか?

大江:ジャズミュージシャンの層が厚いことが刺激でもあり、困難なことでもあります。自分はどういうタイプの音楽家か、一番の売りは何かをしっかり把握していないと埋もれてしまいます。でもそういう難しさを超えて、音楽の魅力を最後に出せたらなといつも考えます。

それからこちらでは、待っているだけでは何も始まらないことを知り、自分から率先してブッキングをしたり、タイアップやスポンサー探しをします。ショーを見て感動したり一緒に仕事をしたいと思ったら、相手にメールを出してアプローチもします。断られる場合もありなかなか骨が折れますが、自分の努力が実ったときの喜びは言葉では表せませんね。

僕はこちらでは無名なので、純粋に演奏の善し悪しで評価されます。演奏後にいろんな国の人に話しかけられたりいい評価をいただいたり、またその人がライブに戻ってきてくれたりしたとき、至上の喜びを感じます。


今後もアクシデンタリーに


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2014年ハワイのホノルルで行った、第1回目の東日本大震災関連のチャリティーライブの様子(写真提供/アロハストリート)


── 今後の活動について教えてください。

大江:2016年5月4日(水)と5日(木)に、ホノルルで「大江千里プリゼンツ 東日本大震災津波復興チャリティコンサートin ハワイ - ハナホウ! フィーチャリング八神純子 & スペシャルゲスト」を開催します。

── ハワイとの接点やライブをするに至った経緯は?

大江:4~5年前に米系の航空会社が合併したとき、ローンチパーティーでピアノを弾きまして、ギャラとして世界中どこでもファーストクラスで行ける航空券をいただいたんです。

うれしくてずっと使わないで取っていたんですが、2年前に使用期限がきてしまって、それが3月11日近辺までしか使えないってことだったので急遽ハワイに行くことにしたんです。でもせっかく行くのなら、東日本大震災の被害者のために義援ライブをしようと考えました。

しかし、その計画が立ち上がったのと時を同じくして、ちょうどNHKから『Music For Tomorrow』(第1回目)の出演依頼が来たんです。音楽を通して東北にメッセージを送るという企画で、僕にはニューオリンズからソウル歌手のベン E.キングさんと一緒に演奏をしてくれないかと。

迷いましたが、世界中に放送されるということで影響力の大きさも考慮し、ハワイ行きを諦めました。

NHKの番組の収録が終わったあとも、ハワイでのチャリティーライブのことはずっと頭にありました。そして、「自分で言い出したことだから行かないとダメっしょ!」ってことで、実行することにしました。乗り継ぎが4回ぐらいあるような一番安い航空券を買って、20時間ぐらいかけて。ホテルもインターネットがうまく繋がらないようなところで四苦八苦(苦笑)。

それが2年前にやった、初回の義援コンサートです。スタッフやボランティアに助けられ、ライブは大成功に終わり日本円で200万円ぐらい集まったんです。その全額を東北の子どもたちがハワイに来て自然に触れる渡航費に宛てました。

せっかくハワイまで行ったのに海に入る時間もないほど忙しかったのですが、ハワイの人に逆に大きなギフトをもらって、ビーチでバカンスを楽しむ以上の充足感がありました。

── その第2回目がこの5月に開催ということなのですね。

大江:そうなんです。前回共演したシンガーソングライターの八神純子さんは今回も共演を快諾してくださり、先日放送されたばかりの『Music For Tomorrow』のプロデューサーも僕のこの活動を応援してくださって、番組の中でも橋渡し的にチャリティーライブをフィーチャーしてくれました。

もともとは無料のファーストクラスチケットがあったから始まった話で、人に褒めてもらえる話ではこれっぽっちもないんですけれど...。ただ、幸せな気持ちで仲間とチームを組んで、誰か困っている人のために一生懸命がんばれたこと、それが僕の背中を押してニューヨークライフをその後も励ましてくれています。

前回、紹介していただいた日系の靴屋さんが八神さんと僕に、好きな靴をプレゼントしてくださったんです。僕が選んだのは、黄色の紐靴ですっごくおしゃれなやつでね、宝物なんです。ニューヨークに来てほとんど服なんか買ったことなくていつも10ドルぐらいのジャケットを着ているんだけど、5月にハワイに帰るときはその自慢の靴を履いて行きます。

よく考えたら、このチャリティーライブもアクシデンタリーなことから実現したことですね。今回も素晴らしい内容をお届けできるようにがんばりたいと思います。


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── 最後に読者に向けてメッセージをお願いします。

大江:働くということに関しては僕もビジネスマンです。お金をいただくということは、その仕事に関わる相手の方がいるわけですが、気持ち良く取り引きできて関わる相手の方に満足してもらえるか、それが成功のキーだと思います。そして1人では働けない。関わる人への感謝の気持ち、これに尽きると思います。



47歳でジャズ留学し、ジャズミュージシャンになる夢を叶えた大江さん。競争の激しいニューヨークのジャズシーンは厳しいのかもしれませんが、前向きに笑顔で語ってくれる大江さんにジ〜ンとしつつ大きな勇気をもらえたような気がしました。


(文/写真/安部かすみ)

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