2016年04月13日

ボーダーライン/狼男だよ

sicario_01.jpg
オフィシャルサイト

そのタクティカル・スーツ姿に先だって記憶した戦場の牝犬を想起していた身からすれば、ケイト・メイサー(エミリー・ブラント)の二の腕は意外なほどに華奢であったわけで、原題(Sicario=hitman=殺し屋を意味するスペイン語)の意味が次第に浮かび上がって来るにつれ、深淵の怪物を視る者もまた怪物とならざるをえないという葛藤に彼女がどれだけ苛まれようが、正義があるとしてもそれは怪物の正義であるという世界においては、彼女こそが埒外の人でありせいぜいが怪物の生き餌にすぎないというその圧倒的な無為を描くことで、どこにも勝者のいない敗戦処理のマッチポンプで生きながらえる世界の後ろ姿をほんの一瞬でもスケッチすることが叶ったように思うのである。したがって、原題が指さす主人公をアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)とした時、ケイトは彼の復讐に添えられたセンチメンタルなアリバイに過ぎず、観客が自身の良心を託せる唯一の存在である彼女の生死ですらが、もはや彼の復讐の成否にまったく寄与しない物語の救いのなさは、やはり似たようなアリバイのバランスとして国境の南に配置されたシルヴィオ(マキシミリアーノ・ヘルナンデス)のストーリーがいささか蛇足に思えてしまうくらいに深々と刺さったままだったのである。したがって、ヴィルヌーヴは邦題が匂わせる善悪の彼岸を画する一線を啓蒙あるいは告発しようとしているわけではなく、もはやこの麻薬戦争が消費されるドラマでしかないことを前提に、一線の向こう側で変質した世界のルーティーンを使って、これまでの作品がそうであったように魂を擦過して発火させ燃やしつくそうとしていたように思うのである。それは最後にたどりついたのがケイトの絶望のさらにその先の、真昼の銃声に倦んだ顔をして立ち尽くすサッカー場の大人たちであったことからも裏書きされていたのではなかろうか。そしてまた、通常ならPOVに切り替わるべきナイトヴィジョンのシークエンスでさえカメラの視点をそのままにすり抜けたように、リアルな追体験に拘泥するよりは幻視によるリアリズムを追った漂泊するショットの数々からも、ロジャー・ディーキンスが監督のそうしたヴィジョンを共有し共鳴していたことがうかがえたように思う。夕闇の中に一人一人消えていくデルタフォースのシルエットがどこかしら水中に沈んでいくように思えた次のカットで暗視画像に切り替わった瞬間、仰角気味のカメラがとらえたのはまるで緑色の水底に降り立つように現れる隊員たちの姿であったのには思わずおかしな声が出そうになったのだけれど、実際ここを黄泉の国への入り口とでもしたかのように、物語はマジックリアリズムといってもいい現実に舵を切っていくことになるのである。それにしてもである。アレハンドロがケイトにつきつける「お前は狼ではない、そしてここは狼たちの場所なのだ」というセリフに、狼?デル・トロが?ブラントに?と畑違いの既視感を抱かせるのはどこまで確信済みのしわざであったのか。デル・トロにしてからがかつては黄色い土地で絶望した男だし、エミリー・ブラントのタクティカル・スーツ姿については冒頭で触れたように言わずもがなである。そんな風に、もはや手垢がついたといってもいい題材を延長線上の俳優に演じさせることで生まれるある種の停滞すらを利用して憂鬱と倦怠の澱みを呼び込んだのだとしたらヴィルヌーヴの喰えなさ加減にいっそうの磨きがかかったことを喜ぶべきだろうし、ロジャー・ディーキンスと三度目のタッグとなる『ブレードランナー2』がいったいどれだけ透徹したメランコリーを湛えるのかを考えて見た時、ベニチオ・デル・トロをハリソン・フォードに、エミリー・ブラントをロビン・ライトに、ジョシュ・ブローリンをライアン・ゴズリングに置き換えてみれば、実のところこれは念の入った予行演習だったのではなかろうかなどと喰えない夢想をしてみたりもするのであった。
posted by orr_dg at 20:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/436570991
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック