これは、1991年9月30日のNHKの番組で「ボルテスV」が取り上げられた時のもようです。
| 番組予告 | ボルテスVという日本製のアニメーションが12年前、マルコス時代のフィリピンで放送を禁止されました。しかし、アキノ政権になって再登場します。 大きくゆれるフィリピンの対日感情をフィリピンのTV製作者の手でリポートするNHKスペシャル・ドキュメンタリーアジア発、第一回フィリピン「日本製アニメに何を見たか」は総合TV明日夜10時です。 |
番組の冒頭、NHKアナウンサー松平定知氏がまず説明する。
| この番組は、NHKからの要請で、番組の企画、取材、編集、全てフィリピン人スタッフのみで制作された番組です。番組のテーマは、現地の人からみた日本像。フィリピンのTV制作会社「アルタパワー」のディレクター、レイモンド・ミランダによって制作されました。そして、この番組では日本のアニメーション「ボルテスV」という名前のアニメーションが出てまいります。「ボルテスV」・・ご存知でしょうか?日本ではほとんど注目を集めなかったこのアニメーションが、フィリピンではさまざまな騒ぎをまき起こしました。しかもそれが我々にとって意外な展開をしてまいります。 |
ディレクター、レイモンド・ミランダ談
| ・・・フィリピンと日本についてのユニークな題材、と言う事で私が選んだのは、1978年の「ボルテスV事件」です。「ボルテスV事件」は両国にかかわりがありましたが、事件はもっぱらフィリピン国内でおこります。「ボルテスV」は我が国で唯一放送禁止になったアニメーションです。 |
場面はフィリピンの何人もの若者達が、少したとだどしいが日本語で「ボルテスV」の主題歌を歌うシーンになる。
日本製のアニメ「ボルテスV」は1978年フィリピンで放映されTV史上最大の大ヒットになりました。登場人物は五人の若者。彼らはそれぞれ自分の宇宙船を操縦し、五つの宇宙船を合体させ一つのボルテスVというロボットになった時、最大の力を発揮し宇宙を悪の手から守るのです。
金曜日の午後4時。授業が終わると子供達は急いで家に帰ります。金曜日は特別な日。そう「ボルテスVの日」なのです。1978年このロボットはフィリピンの子供心をとりこにしました。ボルテスVは自分達の時代の最先端テクノロジーであり、だからこそそこに参加したいと望んだのです。TVの半数が「ボルテスV」にチャンネルを合わせ、30分の間すっかり夢中でした。街には「ボルテスV」のグッズが溢れ、ステッカーを集めTシャツを着、ボルテスの歌を日本語で歌ったのです。
子供たちとは反対に、大人達はこのアニメを嫌いました。暴力的だ、子供たちによくないと放送中止の運動をはじめました。子供の娯楽と片付けてはいけないという意見もありました。日本に批判的な立場の人には、70年代は日本が新たな経済侵略に乗り出したと見えたようです。「ボルテスV」はその為の道具だというのです。しかし、子供たちには平和の使者であり、憧れの日本の象徴でした。「ボルテス」を見て育った人は、今二十代前半から三十代。若く仕事熱心な中間管理職。そして将来のフィリピン指導者層です。
ナレーション・・・ビンセントは23才。大企業の管理職。休日には若者にはやりはじめた戦争ゲーム(サバイバルゲーム)を楽しみます。しかし一週間を充実したものにするにはもうひとつ、古いビデオを見ることが欠かせません。なかでも一番のお気に入りは「ボルテスV」。10才の時に見て以来ずっと大ファンです。
| ビンセントのコメント・・・・「ボルテスV」はとにかく出来が違っていました。かっこよくておもしろくって、みんなロボットを欲しがったものです。放送は放課後すぐでしたので、みんな急いで家に帰りました。週一回しかなかった放送日は首を長くして待ちました。 |
ビンセントも友達も「ボルテスV」を見逃した事は一度も無いいといます。
マークは22才大学でコンピューターを学びながら音楽プロデューサーとして活動しています。マークも「ボルテスV」のビデオをよく見ます
| マークのコメント・・・時計が6時を打つとTVの前に座っていました。忘れることは絶対にありませんでした。目新しさに夢中になりました。あんなアニメははじめてでした。アニメのおもしろさに加え、ロボットが飛び回ったりするハイテクの使い方が魅力的でした。 |
それまでの子供番組はアメリカアニメしかありませんでした。子供たちに人気があったのはディズニーとハンナバーバラ社のキャラクターでした。この2社の番組が子供番組の全てだったのです。しかし、1978年アメリカ産ではないアニメが登場したのです。このころのフィリピンの子供番組はアメリカのアニメの再放送ばかりでした。「ボルテスV」はそこに出てきたのです。
アパという若者がでてきます。彼はそれほど「ボルテスV」のファンではなく、当時を客観的に分析します。
| アパのコメント・・・映像がユニークでした。渋い色調で影が多くて。アニメでははじめての映像で子供心にすごいと思いました。ダイナミックでイキイキとした映像は他になかったのです。 |
放送開始から何週間も経たないうちに「ボルテスV」の絵を使った商品が街に溢れます。「ボルテスV」が商売として成功したのは紛れも無い事実です。これ以後TVの子供番組は大きく変わります。どのTV局も日本からアニメ番組を買い付け、放映するようになりました。(ゲッター、ダイモス、メカンダーロボ、マジンガーなどのパンフが映る)オモチャ会社もだまっていません。放映から一年もたたないうちに、ロボットは最高のヒット商品になります。配給会社の社長もこれほどのヒットは予想しませんでした。
| 夢のようでした。視聴率は最初の月で18%を記録し、3ヶ月でトップ5に入りました。またたくまにナンバー1になり、最高は58%でした。この数字は子供だけでは得られません。あの頃「ボルテスV」は大人のファンも掴んでいたのです |
「ボルテスV」の成功にまもなく政治の影が射しはじめます。70年代後半は、マルコス政権に対する国民の不満が高まりはじめた時でした。戒厳令下の生活はもうたくさんだと思いはじめていたのです。一方政府も国民に対する威信対策を必要としていたのです。うってつけの標的として選ばれたのが「ボルテスV」だったのです。1979年8月マルコス自身が放送禁止を宣言します!
| あの声明の後、「ボルテスV」の放映は硬く禁止されてしまいます。しかし、他の局ではあいかわらず「キャプテン・フューチャー」や「スタージンガー」などの日本アニメは放映されていました。わが社だけが公平な扱いを受けなかったのです。政界のその筋にパイプが通じていなかったのです。ビジネスにはよくある話です。 |
この意見に異議を唱える人もいます。当時の情報大臣としてマルコス大統領の命令実施にあたったフランシスコ・ハラダは
| 各方面から抗議が殺到したのを憶えています。親や先生達は、子供達への影響を心配して講義してきました。成長期の子供に悪い影響を与えては大変だというのです。ボルテスVの内容が暴力的だという声が目立ちました。 |
当時子供だった人のコメント
| ばかげている見方だと思いますよ。ボルテスVに暴力的な所などありません。腹が立ったのなんのって・・・。世の中上手くいかないものですが、本当にがっかりでした。作品全体のテーマは名誉、正直、潔さ、強い意思だと思います。どこが悪くて放送禁止になったのか、まったく解かりませんでした。 |
しかし親の世代の意見は全く違いました。
フィリピン大学教授だったメルチョードは、自分の子供達はこのアニメを全く楽しんでいなかったと言っています。
| TVアニメというものは、笑いながら楽しく見るものだと思っています。しかし、ボルテスVを見るうちの子供達はいやに深刻そうで沈み込んだ顔つきでした。また道徳的な問題もありました。その第一は「大人に対する子供の勝利を描いていた」ということです。それも醜い大人に対する勝利ばかりだったのです。ボルテスVでは大人と子供が熾烈な戦いをし、最後には必ず大人が負けるのです。それを見た子供達は「自分たちも大人に勝てる」と思うでしょう。それがあのアニメの1番の問題点だったと思います。 |
彼を悩ませたのはそれだけではありません。ボルテスVの人気が頂点に達したとき、彼の息子もボルテスVのおもちゃが欲しいといいだしたのです。
| 息子は毎日のように、ボルテスVのロボットが欲しいとねだりました。機械仕掛けのものならなんでも喜びましたが、1番よろこんだのはボルテスVのものでした。ボルテスVの為に学校に行かなくなったり、宿題をしなくなったりという事はありませんでしたが、TVを見る時間を制限しなかった家では、ボルテスVのせいで子供が勉強しなくなったという声をよく聞きました。 |
それ以上に問題を深刻に受け止めている人達がいました。その一人、弁護士のトーレスによれば、ボルテスVは日本がアジアでの強い立場を印象付けるために利用した道具だと言います。
| まず感じたのは、ボルテスVが使う刀の、象徴的な意味です。私にはサムライの刀としか見えませんでした。刀が1度抜かれると、どんな敵でもたちまちやっつけてしまうのです。ボルテスVの刀は、日本という強い刀を現しているとしか思えませんでした。日本は強いという印象が子供達に植え付けられ、将来それに出会った時、屈服するしかないと思ってしまうようになったら大変だと考えたのです。 |
トーレスは日本に7年間の東大留学経験がありましたが、日本の大企業に就職しようとした彼は「日本語が解かり過ぎる」ということで断られました。日本人同志の会話の邪魔になるというのです。彼は日本を受け入れていたのに、日本は彼を受け入れなかったのです。彼が日本で学んだ事は活かせず、結局アメリカ企業に就職した彼や同じような体験をした留学生は、日本人の傲慢さの現れだと思うようになり、反日デモを起こす人々も現れます。そのような反日感情がボルテスVによって一気に表へ出てきました。
| わだかまりが残っていました。フィリピンにいる日本人が私を受け入れなかったのに、なぜ私がこの国に入ってきた日本のものを受け入れなければならないのです。それが当時の私の正直な気持ちでした。 |
トーレスはボルテスVに反対する親達を集めて、抗議団体を作りました。当時6コのPTAで役員をしていた事も大いに助けになりました。この反対運動を後押ししたのは時代のタイミングでした。当時市場には日本製品が溢れだしていました。当初ボルテスVはアメリカ製のアニメだと思われていました。登場人物の名前もアメリカのものでした。しかしこれはアメリカを隠れみのにした日本の計略ではないかと、反対派を刺激します。この不安は日本史研究家レナード博士によって裏付けられます。
| ボルテスVのようなアニメの出現をどう捉えるかというと、軍人精神をたたえるものだという事です。こういったアニメの出現は、一部の日本保守派政治家の隠れた願望の現れに他なりません。かれらの願いはかつての日本軍の栄光を取り戻す事、それとともに天皇崇拝の伝統を復活させたいと考えていたのです。 |
第二次大戦で日本軍にひどい扱いをうけたフィリピン人に対して、ボルテスVはその戦時中の行ないを正当化しようとする日本のキャンペーンの第一歩で、これを機に日本が再びフィリピン征服にのりだしたのだというのです。
| 戦争の時には、まず日本軍がやってきてフィリピンを征服し、その後で日本の商人達がやって来ました。現在はちょうどそれを反対にした事が行なわれているようです。つまり日本製品がいっぱいになった後で軍隊が来るような気がします。ボルテスVはそういう懸念を多くの人に持たせたのです。戦後の賠償においても、日本は現金より品物や設備で支払おうとしました。その為フィリピンには日本製品が多くなり、それに馴れていきました。こうして日本は長い時間をかけて着実にそして見事にフィリピン市場に入りこみました。もし、日本がどこかの国に日本の新しいイメージや軍国的な思想を広めたいと思ったら、まずその国の子供をターゲットにするでしょう。これはスペイン人がフィリピンを征服したときの方法と同じです。スペインの宣教師たちはまず子供達をキリスト教に改宗させるように命令されていました。そうすれば10年後には黙っていても国全体がスペインに従うはずだというのです。そして事実その通りになりました。ボルテスVについてもターゲットは子供たちです。子供たちが大人になった時、一部の軍事力復活を願う日本人の願いが実現するのではないか・・・。それが心配だったのです。 |
しかしそれは考えすぎで、かえって心配なのは、これを機会にして多くの日本人ビジネスマンがフィリピンになだれ込んでくることだという人もいます。アジア各国に日本人が進出しすぎること、それはそれで心配には変わり有りません。今の子供たちが大人になった時、日本のものはなんでも強力なので、黙って受け入れるしかないと思いこむ事が心配なのだといいます。
当時の子供は・・
| 番組からの印象は、日本はハイテクの国で、日本人は大人がいうほど悪い人間ばかりではなく知的でいい人だという事でした。また韓国製か日本製かなどという事は関係無かったのです。「ボルテスV」でさえあればアフリカ製でもかまいません。おもしろくて好きだったから見ていただけです。 |
ボルテスVは放送禁止になりましたが、その時までに日本はフィリピン市場にかなりの進出をはたしていました。10年もたたないうちにアメリカ製品は70年かけて築いたフィリピンでの地位をあっという間に日本にあけ渡す事になりました。そんな時フィリピンの政治に激震が走りました。
1986年2月に起こったアキノ革命ではメディアが重要な役割を果しました。国営放送チャンネル4では、番組内容を一新しようとしました。そしてボルテスVが7年ぶりに登場します。民間局ではなく国営放送で再登場したのは、以前の反対派からの抗議がまた来ないように、国の放送局なら間違いはないだろうと思わせる意味もありました。そしてこの時はボルテスVに対する反対はなにも起こりませんでした。革命という自由な空気が、13年前の狭いかたよった価値観を持つ人々に焚き付けられた反対運動を吹き飛ばしてしまったようです。しかし、熱狂的なブームも起こりませんでした。
| その時はもう、17,8才になっていて、興味が他に移っていました。でも見ることは見ましたけどね。みんな、懐かしかったんでしょう。子供の頃夢中になった事を思い出したかったんです。 |
マルコス政権で禁止された事を、アキノ政権では否定しボルテスVは国営放送で、前回打ちきられた回からの続きが放送されました。そのために番組の残りが少なく放送はすぐに終ってしまいました。それでもボルテスVは立派にその役目をはたしました。かつてのファン達は日本と日本人に対して心を開きながら成長し、それぞれの分野で活躍しています。そして日本人との商談の時などには、ボルテスVを通じて受けた日本人の印象が自分の中に残っているといいます。そして当時あれほど反対運動を繰り広げたトーレスも、アキノ政権をすぐに承認した日本政府の行動を見て、考えが変わったといいます。
| あの時日本政府は、フィリピン国民と共に戦うべき時だと判断したようです。その点では日本人を尊敬しなければなりません。日本人が民主主義を支持してとった行動は、きちんと評価しなければなりません。 |
変化は、日本とフィリピンの通商にも現れました。日本からの投資も増えODA(政府開発援助)は対外債務に悩むフィリピンに道路、鉄道、農業などに惜しみない財政援助をしました。しかし、決して日本政府が善意のみで援助をしているとは思っていません。日本の企業の利益になる分野に援助が集中している所からもわかりますが・・・。しかしこうした新しい相互理解の関係も、相手を対等な立場と見ない限り不安定なものになってしまいます。
| 誰にとって誰が必要か・・ということではなく、大切なのはお互いに利益を与え合うということです。現在の日本の援助では日本が特をするだけです。これではフィリピン国民に対する援助とは言えません。 |
| ボルテスVにもう一つのメッセージがあったとすればそれは「お互いが協力しあえば大きな力が生まれる」・・・ということです。今考えれば、あのアニメはその事を教えていたんですね。5つに別れていたのが合体し、刀が出てきたらもう無敵なんです。ひとつになって力を合わせればこんなに強いものはない!それがボルテスVの明快なメッセージだったと思います。 |
フィリピンのことわざに「自分がどこから来たかを振り返らないものは、決してゴールにはたどり着けない」というのがあります。戦争で苦しんだ時代から、相互理解を目指す現代まで・・・そしてちっぽけな子供のおもちゃから、国と国との間に立ちはだかる大きな壁まで・・・。ボルテスVはそういう問題を一身に背負わされてきました。1978年にこのアニメがTVの画面から消えたのも、両国間の不信感の現われでした。もし、2つの国がそこから一歩を踏み出そうとしていなければ1986年に再登場することもなかったでしょう。ボルテスVはバラバラの部分が一つになると、どんな困難にも立ち向かえることを示してくれました。私達フィリピン人と日本のみなさんとが、互いを理解する努力を怠る時、私達はすぐ、あの1978年に戻ってしまうでしょう。ボルテスVはその事を私達に教えてくれました。
フィリピン側による番組はここで終わる
NHK松平アナウンサーのコメント
| ボルテスVという、日本ではほとんど注目を集めなかった、普通の1アニメーション番組が、フィリピンではご覧の通り、社会、経済、文化、と重なり合ってさまざまな議論を巻き起こした。しかもそれが大きな社会的意味を持って展開していったという事実は・・・実は率直に申し上げて、私大変意外な事ででございました。繰り返して申し上げますが、この番組はフィリピンの方だけによって、フィリピンの方の視点で作られた番組です。番組に登場したかなりの反日感情をもった方・・・あの方の意見はやはりあの世代の方には共通に持っている感情だということです。1つの同じ国でありながら、戦争を体験している世代と、アニメはアニメじゃないかという風に言いきれる、戦争を全く知らない世代とのジェネレーションギャップ・・・それが日本製の1アニメーション番組が引き金となって様々な議論を展開していく。しかもその一つ一つが彼らにとって重く、真剣なものであるという事実・・・私共の目では拾いきれなかったこうした素材を彼らが見つけ、そうして番組化した・・・こういった意味でもこのドキュメンタリーは大いに考えさせられた番組です。 |
以上、長い文章をお読みいただいてありがとうございました。
なるべく番組通りに紹介するためにこの様な形式を取らせていただきました。
NHKでの番組ではこのように解説されましたが、
長浜監督は当時の上映会などで、
ボルテスの内容が、独裁者に対する民衆の反乱を扱っているので
フィリピンの政情に通じるものがあって、放映が禁止になった・・
ともおっしゃっていました。
ご感想などお聞かせいただけると幸いです。
99・7・7 ☆るり