Verbum Caro Factum Est

僕Francisco Maximilianoが主日の福音を中心に日々感じたことや思うことを書き綴るBlogです。同時に備忘録でもあります。


テーマ:
ゴシップサイトが「マザー・テレサは聖女なんかじゃない」という記事を書いていて、どこぞの信者がそれをネタにブログを書いているのをたまたま見てしまった。

ただ、見解違い、知識不足、自分の生活の座と相手の生活の座を混同することによって不毛なパラレルワールドが生まれているにもかかわらず(話が終息しないという意味ですが)、結局は関係ない話題とか私情を持ちだし、最後にもっともらしく聖句をのせて体裁を整えるという、僕に言わせれば、なんともお粗末なものだった。これを見て「立派だ!」と仰る方がいるのならば、それはそれでいいのではないだろうか。

まず、信者として(その方はプロテスタントらしいですが)、教会にまつわる情報を信頼のおけるソースに依拠していない所が良くない。対外的にというより、ご本人の霊的成長に関して。

「聖女ではなかったマザー・テレサ 「洗脳看護」「カルト施設」、その実態とは!?」
(ハピズム 2013.03.13 水)


「ハピズム」とあるけれどここは「占い・開運・スピ総合サイト|ハピズム」というサイトだ。
スマートフォンアプリの「日刊サイゾー」や「サイゾーウーマン」「サイゾーマン」の関連サイトで、このサイト群は芸能界やサブカル、「創価学会」などの嘘かホントかわからん裏事情が読める!という触れ込みで読者を集め、随所にエロ広告がポップアップされるエンタメサイトだ。

そこから記事を引っ張ってきたこと自体、教派は違えども同じキリスト者として怒るほどでもないが、情けない。

前述のサイトによれば、

「 彼らは、マザー・テレサに関する文献資料、約300件を調査し、「マザー・テレサが世界中に開設した517もの『死を待つ人々の家』ホスピスは、衛生状態が悪く、医薬品も慢性的に足りず、満足な治療が施せなかったと報告されている。しかし、彼女の修道会『神の愛の宣教者会』は何百万ドルもの多額の寄付金を受けており、金銭的に困っているわけではなかった」という事実を突き止めたと発表。そして、「マザー・テレサは、患者の痛みを和らげることはせず、痛みに耐えることを賛美して癒やすという、怪しげなことをしていた。多くの病人が、彼女の元を訪れれば、医師が治療をしてくれると思っていたにもかかわらず、彼女は、イエス・キリストの受難のように、痛みに耐えることは尊いことだと繰り返し言うだけだった」「人気が低迷しつつあったバチカンは、劣悪な環境で痛みに苦しむ人たちに『あなたは素晴らしい人間なのよ』と優しく接している、マザー・テレサのことをまさに“生きる聖女”だと大げさに宣伝することで、カトリックのイメージアップを図ろうとした」と指摘した。

 また、「バチカンは異例の早さで彼女を福者だと宣言したが、“痛みに耐えろ”という、怪しげな看護方法、問題点の多い政治家とのコネ(ハイチやアルバニアの独裁者を支持し多額の寄付金を得たという説がある)、多額の寄付金の管理に関する疑問点、そして、中絶、避妊、離婚に関して過度に批判していた点などは、一切、問題としなかった」とも綴っており、事実を知れば知るほど、マザー・テレサの神話はでたらめだということが明確になるとしている。

 さらに、マザー・テレサの名が一気に世界に広まったのは、英BBCのマルコム・マガリッジ氏の力が大きいとも指摘。中絶反対派でカトリック右派のマザー・テレサに共鳴したマルコムは、1968年にロンドンで彼女と面会しており、翌年、そのミッションをたたえる映画を製作。「初めて写真に撮られた奇跡」として、コダック社もマザー・テレサを宣伝に使い、彼女の顔は世界中に知れ渡った。

 奇跡といえば、バチカンは、「マザー・テレサは、ひどい腹痛に苦しむモニカ・ベスラという若いインド人女性の腹部に、宗教的なメダルを置き、祈ったことで治癒した」とし、マザー・テレサの奇跡として伝えている。しかし、医師は、「モニカが患っていた卵巣嚢腫と結核は、投与された薬により治癒したのだ」と証言しており、これを否定。それでも、バチカンは「奇跡だ」と主張し続け、多くの人々を騙しているという。

 なお、マザー・テレサは晩年心臓病を患い、ペースメーカーを入れる手術などを受けていたが、自身は衛生的で設備が整った近代的なアメリカの病院で、痛みを和らげる麻酔薬を投与されながらの治療を受けていた。まさしく、聖人からは程遠い人間だったというのである。

 マザー・テレサは聖人ではない、うさんくさい人間だという意見は、実は昔から出ていた。2年前に62歳の若さで食道がんでこの世を去った無神論者のジャーナリスト、クリストファー・ヒッチンズは、長年、マザー・テレサはとんでもない食わせ者だと主張し続け、それに関する本まで発行。「彼女が世界中から集めた寄付金を使えば、ベンガルにファーストクラスの病院を建てることだってたやすいことだった。しかし、彼女はそうせず、衛生状態の悪い、あまりにもひど施設に患者を収容し、ろくに治療を施さなかった。痛みを和らげるなど嘘だ。死ぬこと、痛みに耐えることを賛美する、まさしくカルトのような施設だったのだ」「信仰する宗教に関係なく看病したというが、それも嘘。朦朧とした患者に、痛みに耐えれば天国へ行けると、繰り返し言い、洗脳した」と厳しく批判している。

 今回発表された論文だが、「聖人的なイメージを持つマザー・テレサの創られた神話が、貧困にあえぐ人々の救済を目指す人道活動家たちを励ますことになっているのは確かだ」「しかし、マザー・テレサに関するメディア報道は、もっと慎重に、事実に基づいたことを伝えるべきだ」という言葉で締めくくられている。


僕に言わせればマザーが聖人だろうと福者どまりだろうとどっちでもいい。

一つ一つに答えるのは時間の無駄なので、根本的なことだけを書きたい。
まず、マザーテレサは人道的(ヒューマニスティック)活動家ではない。一修道者であり「神の愛の宣教者会」の創立者である。社会運動家でも活動家でもない。

上のゴシップ記事が引用した文章のなかで「彼女が世界中から集めた寄付金を使えば、ベンガルにファーストクラスの病院を建てることだってたやすいことだった。しかし、彼女はそうせず、衛生状態の悪い、あまりにもひど施設に患者を収容し、ろくに治療を施さなかった。痛みを和らげるなど嘘だ。死ぬこと、痛みに耐えることを賛美する、まさしくカルトのような施設だったのだ」というのがある。

まずます、マザーは大々的な病院を建てるつもりなどない。一人お世話し、看取り、出来れば、もう一人お世話すう、ただそれだけなのだ。ましてや、世界中にある施設と修道院のシスター達を維持していくためには費用はもちろんかかる。そもそも献金には名目のない献金と、意向のある献金(例えば修道院の意向ため…すなわち貧しい人の施設のため、貧しい人の食事のためといった細かい指定献金というものがある。

なぜそれを一箇所にまとめてファーストクラスの病院を建てなければならないのか、さっぱり意味がわからない、というかわかっていない。すでに金持ち用の病院はそもそもある。その立派な病院がやらないからシスターたちは今日もその人達を看取っているのではないだろうか。

近隣の人が誰も寄り付かないような建物、分け有物件や、使わなくなった修道院、戦争中の仮小屋などを譲り受け、出来る限り質素に綺麗に保つために持ち場のシスター総出で働き、数少ない薬で看病をする。看病というよりかは「手当て」と言った方が良いだろう。蘇生させるための医療行為を行うのが目的ではなく、人に触れられることもなく道端でのたれ死んでいく人々を運んできて、綺麗に清拭して、お食事を差し上げる、そして「あなたはかけがえのない人なのですよ」というキリストの福音の本質を語りかける。多くの人は「何故このようなことを?」と問ううという。「あなたを愛しているからです」。マザーの答だ。

以前、マザーのところに「マザーのところに集まってくる衣料品をもっと効率的に御使いになったらどうですか(死ぬ人に投与するのではなく、生きる望みが残っている人にこそ仕え)」というメッセージが届いたという。

マザーは毅然とした態度で「後数時間か後には亡くなっていく方かもしれません。そして路上で死にかけていたこの方は今まで手厚い介護を受けたことも、自分が愛されているということを知らずに路上にいたのです。その一人の、一人格を持った、目の前の方のために用いるこのお薬こそ、最も大事なおくすりなのではないのでしょうか。」と答えた。

どういう背景にせよ、自分を助けてくれなかった家族や親せきを恨み、政府を恨み、国を恨み、もしかしたら神や仏もうらんで恨みごとのうちに死んで行ってもおかしくないだけ惨めな思いを受けてきた人々が、シスターたちの手厚い手当てを受け、最期に残す言葉は「ありがとう」と言って亡くなっていくそうだ。

そしてマザーは、ムスリム(イスラム教徒)が亡くなった時はコーラン(クルァーン)を、ヒンズー教徒が亡くなった時はヒンズーの御経を、プロテスタントの方が亡くなったら主の祈りを、カトリックが亡くなった時はアヴェ・マリアへの祈りを唱えたという。もちろん、亡くなった方が大事にされてきた宗教に尊敬をはらってのことだ。宗教包括主義として教会から指導が入るであろうリストに載っていたそうだ。

このサイトが引用したものをもう一つ見てみよう。

「聖人的なイメージを持つマザー・テレサの創られた神話が、貧困にあえぐ人々の救済を目指す人道活動家たちを励ますことになっているのは確かだ」「しかし、マザー・テレサに関するメディア報道は、もっと慎重に、事実に基づいたことを伝えるべきだ」

結局この論文を書いた人は聖人伝になるまえに、もっと生身のマザーテレサの生きざまや、事実に基づいたエピソードを伝えろ、と言っているだけだ。いわばまっとうなことだ。

とくに「聖人」のような修道者の周りにいる人達は、とにもかくにも振り回される。本当に突拍子もなく、頑固で、融通がきかないという。なぜなら、周りの人たちには見えていないものが、「聖人」には見えているのだから。それは霊的な幻視ではなく、直観的なビジョンなのかもしれない。

「聖人」は決して高潔な、清い行いをなした、理想的かつ模範的なキリスト信者のことをいうのではない。そこに、神の声を聞いていたかどうかなのではないだろうか。何かをしたから、なにもできなかったから、という問題ではないのだ。

マザーは目の前にいる瀕死の人を、一人看取って、できればあと一人手当てして看取ってを繰り返す、頑固で伝統的カトリシズムとラディカルさが同居している、一人の修道者であるし、それがすべてだ。きっと彼女は聖人になどなろうとも考えていなかったのではないだろうか。


$Verbum Caro Factum Est


マザーは生前にこう言った「私は一日に二度聖体拝領をします。一度目は朝のごミサの中でご聖体でいらっしゃるイエスを、二度目は道端で倒れている人の中におられるキリストを」。カトリックではミサのなかでキリストの体である聖体というウエハースみたいなものを頂く。これを聖体拝領という。これはまぎれもなくキリストの体であるとカトリック信者やアングロカトリックの信者は信じている。だが一日の聖体拝領は一回までと決まっている。マザーはそれを知っていて敢えて言っているのだ。一日に二回キリストの御体に御触れしている。これは人のためであるのと同時に修道者としての自分のためでもある。誰が傷つくだろうか?だれも傷つかない。いや、むしろ与える方は傷つく。受ける方は癒される。ご聖体のイエスは聖体を受ける者に完全にご自身を引き渡す。だが受ける者はイエスの存在に満たされる。瀕死の人との関わりに苦しみが伴わないかと言えばそうではない。だが、その瀕死の人の中に彼女はイエスを観いだし、そのイエスを受けとめているのだ。

マザーの心臓手術や修道院への寄付が強調されているが、普通に考えてほしい。

マザーは、4.500人以上いる修道女と修道士を抱える修道会の総長である。マザーがしなければならない仕事は、貧しい人々の中にでていくだけでなく、膨大な仕事がある。そのために健康を守ることがいけないことなのだろうか?

また、彼女の霊性に惹かれ、この会にすべてを捨てて入会したシスターやブラザー達は、まず、彼女・彼らの健康が守られなければ、当然、貧しい人にお世話することなどできない。そんなこと考えなくてもわかることではないだろうか。

彼女・彼らが所属し、住んでいるのは、24時間交代制で奉仕する施術院でもデイケアセンターでも、スープストックでもない。修道院なのだ。何度も言うが、彼女・彼らは施設の職員ではなく、修道者なのだ。

なにかヒューマニズムに心動かされて活動しているのではなく、彼らはイエスの福音的勧告である修道三誓願と貧しい人の中でも最も貧しい人に仕えるという誓願を生きるために、そこにいるのである。その修道誓願は、祈り、ミサ、黙想なしには支え切れないものだ。ヒューマニズムとは出発点も内容もそもそもが違う。批判するのなら、その違いを指摘してからすべきである。

第一に、祈りの時間になったらドアを閉めるのは当然なのだ。あと一人に融通聞かせてもいいじゃないか、と思うが、そのドアを閉める心の痛みをもって祈りのうちにイエスとかたらわなければ、病み伏す人への手当てもできなくなってしまう。なぜなら、自分の存在意義がだんだんとわからなくなっていくからだ。

また、このブログの記者は「スピリチュアル普及会」という非キリスト教団体のサイトから、「マザー・テレサの闇」という記事を引用しながらも(うさんくさいと断り書きがあるにしても)その内容には全く触れていない。

マザーは長くイエズス会の司祭に指導を受けてきたのだが、イエズス会の大きな黙想方法として「霊燥」というものがある。30日間の黙想の祈りだが、その30日間は、実はわたしたちの人生という長いスパンを凝縮したものだ。

そのなかで、必ず「慰め」と「すさみ」の体験をすると言われている。マザーが晩年抱えていた心の闇がこの「すさみ」にあてはまるかどうかは、マザーと指導司祭しかわからない。だが、こういった会を立ち上げるほどのカリスマを持った人は、周りに理解されない。それどころか、神に慰めを求めてもまるで剣のように鋭いものとなって返ってくることすらある。アシジの聖フランシスコにいたっては、自分が作った会が自分の霊性からどんどん離れていくのを見ていて、総長職を退き、ついには自分の会から追い出された聖人だ。心の闇の一つや二つ抱えていない方がおかしい。

とにかく、パラダイムが違うとこうも話がかわるか、と妙に感心してしまった。

物質で満たされない飢えを抱えている人に、物質を与えたところでなんの答にはならない。必要なのは寄り添うこと、孤独ではないことを誠心誠意伝えること、ちょっとしたことに耳を傾けることなのではないだろうか。金を渡してその場しのぎさせて、また元に戻ってしまったのなら、それは昔よりもはるかにひどい状態になってしまうのではないだろうか。

「無断許可引用御断り」がないので、この方のブログの一番最後を引用さえていただく。

私も信仰の道を歩み始める際、
マザー・テレサ(と聖フランチェスコ)の存在・言動に大きく影響を与えられました。
今更こういう記事を読んだからといって、信仰が揺らぐわけではありませんけど・・・

どうも、カトリックの体質である、聖人を作りたがる傾向には辟易します。
(プロテスタント教会だって、ルターやカルヴァン、シュヴァイツァー、
ボンヘッファーやバルト、キング牧師や、
身近な牧師先生を必要以上に「崇める」なら、
聖人崇拝をしているに等しいのデスヨ。)
完璧なのはイエス様だけで十分なのです!

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
(新約聖書ヘブライ人への手紙12:1~2新共同訳)


この方の揚げ足取りには興味がないのですが、あまりにも勉強不足なのにビックリしました。これからご自分のブログでお好きなことを何をお書きになっても誰も止めはしないとおもいますし。大いにやってくださいとはおもいますが、一人のキリスト者として、もうすこしまともなソースから引用し、かつ、なんらかの神学とまではいかなくとも、少なくとも御調べになったことに依拠したことをお書きになればいいのになと思い非常に残念である。


どうも、カトリックの体質である、聖人を作りたがる傾向には辟易します。

なんもしらんと、よーいうわ(苦笑)。


あえてこの方のブログのリンクは貼りません。僕も二度と見ないでしょうし。

キリスト教ブログランキング
ランキング参加中です。
御一読後、よければ下のマザーテレサを是非クリックしてください!!
ランキングに反映されて↑↓更新の励みになります!お願いします!!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

AD
いいね!した人  |  コメント(5)
同じテーマ 「思うこと」 の記事

AD

Amebaおすすめキーワード

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

ランキング

  • 総合
  • 新登場
  • 急上昇
  • トレンド

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。