取材・文/安田峰俊
鴻海の社内で十年以上前から伝わる、郭台銘(テリー・ゴウ)会長にまつわる有名な噂話を紹介しよう。
「郭会長とトイレで鉢合わせしてはならない。彼は部下の尿の色を観察し、色が薄いと『まだ働き足りない』と言って仕事を増やしてくるからだ」――
鴻海に買収されたシャープは、一体どうなってしまうのか。雇用は守られるのか。いずれ見捨てられるのではないか……。郭台銘会長が買収の発表会見で多くを語らなかったため、様々な見立てや憶測が飛び交っている。
だが、将来の判断材料がないわけではない。郭台銘会長の過去の発言を丹念に振り返り検証することで、彼の狙いや考えの一端が見えてくるはずだ。中国事情に詳しいノンフィクションライターで、郭台銘会長の会見に出席した安田峰俊氏のレポート。
記者会見とメディア向けツアーで感じた不安
――崩壊直後の社会主義国家の国民は、みなこんな顔をしていたのではないか? 4月2日、シャープ堺工場のホールを訪れたときの第一印象だ。
この日、堺工場では台湾の鴻海精密工業による企業買収の調印式と、鴻海の会長・郭台銘と副総裁・戴正呉、さらにシャープ社長の高橋興三が席を並べる共同記者会見が予定されていた。赤絨毯が敷き詰められたホールには、日本と台湾のメディアの関係者がごった返している。
私がまず驚いたのは、ホール付近で記者たちを出迎えたシャープの社員たちの姿である。
その場にいたのは、いずれも50歳を越えていると思われるおじさんと、20代の女性社員ばかり。30代から40代の「街で普通に見かける男性サラリーマン」が皆無に近かったのだ。おじさんたちからは、世の中のすべてを諦め切ったような空気が漂う。全員が頬に奇妙な愛想笑いを浮かべ、何かに許しを乞うような瞳でこちらを眺めていた。同社の人材流出の程度を想像するには十分な光景だった。
やがて、現場で名刺を交換した台湾のテレビ局・民視(FTV)の取材スタッフにこう尋ねられた。
「英語や中国語がまともに通じる社員が誰もいないんです。彼らが何を言っているか教えてくれませんか」
シャープ側が希望者を対象に開催していた、工場敷地内にあるエコハウス・ツアーの途中でのことだ。
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