|
個人を超える「自分自身を超える」2
「自分自身」を超えるとは、「大願」を抱くと、いとも簡単に「私」と言う個人
的な事象から「菩薩」としての意識に感応する。「いとも簡単に」いかないのは
「自我機能」の働きが強固になっているからだ。愚考やめんどうくさい思考等の
「自我機能」を抑制するのも「大願」である。
釈尊も、その流れにつづく仏法者、日蓮大聖人等々は、青年期、多くは10代に「
大願」を立て、その志のまま、振る舞われていた一生であった。「体感・体験」
現象である。戸田先生の獄中体験も同様である。「法のため」「民衆救済のため
」という「大願」が「絶対的現象・現実」の世界へ自然と誘われるのである。
「自我機能」で、始め「大願」を意識すると「わからない」が、しだいに、なぜ
か「自己機能」から湧き出てくる感覚を感じる様になる。これが「慈悲」の発動
なのだ。「慈悲」は「智慧」により発動している。この発動に気づくのが「自己
機能」である。
私たちは「慈悲」の中にいる、また「慈悲」の現れとして今、あるのだ。「自我
機能」により「気づかない」「気づけない」だけなのである。
「私」「自分自身」だと「思っている」のは、「私」「自分自身」ではないこと
に「気づく」ことだ。「え~」と思うに違いない。それだけ「自我機能」は意識
に浸透しているのだ。「気づけば」「本当だ」となる。
今までの創価では「個人を超える」「自分自身を超える」ということは語られて
いない。「自分を変える」ことに眼差しが向き、「超える」可能性を閉ざすよう
な対応にあったと言える。「変える」のは限定された「自我機能」の世界であり
「超える」ことはできない。日蓮大聖人の仏法は「超える」から、結果として変
わる現象となるのだ。「法華経の智慧」では、「変わる」ことが中心に書かれて
いる。それがコンセプトだからである。しかし、絶対的な視点から見ていくと、
戸田先生の獄中体験・境涯革命などは「超える」ことを示している。「超える」
から「見える」世界があるのだ。
「変わる事は、超える事」としての「理解」から「了解」へ、それは「自分自身
」の選択である。変われない輩ほど、いつの時代でも、騒ぎ立て、無駄と言う自
分の人生を生きている。自らを迷宮に閉じ込めている。
★いつも閲覧有難うございます。お知らせです。
4月4日(月)より4月8日(金)まで投稿を、お休みいたします。
|
|