スレッド一覧

  1. アルベア論(389)
  2. 2015年安保法制(977)
  3. 正義のあかし(49)
  4. 虚構の大石寺疑惑(4)
  5. アラシ行為記録(21)
スレッド一覧(全5)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:653/40689 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

個人を超える「自分自身を超える」2

 投稿者:アルベア  投稿日:2016年 4月 2日(土)04時58分9秒
  通報
  個人を超える「自分自身を超える」2

「自分自身」を超えるとは、「大願」を抱くと、いとも簡単に「私」と言う個人

的な事象から「菩薩」としての意識に感応する。「いとも簡単に」いかないのは

「自我機能」の働きが強固になっているからだ。愚考やめんどうくさい思考等の

「自我機能」を抑制するのも「大願」である。

釈尊も、その流れにつづく仏法者、日蓮大聖人等々は、青年期、多くは10代に「

大願」を立て、その志のまま、振る舞われていた一生であった。「体感・体験」

現象である。戸田先生の獄中体験も同様である。「法のため」「民衆救済のため

」という「大願」が「絶対的現象・現実」の世界へ自然と誘われるのである。

「自我機能」で、始め「大願」を意識すると「わからない」が、しだいに、なぜ

か「自己機能」から湧き出てくる感覚を感じる様になる。これが「慈悲」の発動

なのだ。「慈悲」は「智慧」により発動している。この発動に気づくのが「自己

機能」である。

私たちは「慈悲」の中にいる、また「慈悲」の現れとして今、あるのだ。「自我

機能」により「気づかない」「気づけない」だけなのである。

「私」「自分自身」だと「思っている」のは、「私」「自分自身」ではないこと

に「気づく」ことだ。「え~」と思うに違いない。それだけ「自我機能」は意識

に浸透しているのだ。「気づけば」「本当だ」となる。

今までの創価では「個人を超える」「自分自身を超える」ということは語られて

いない。「自分を変える」ことに眼差しが向き、「超える」可能性を閉ざすよう

な対応にあったと言える。「変える」のは限定された「自我機能」の世界であり

「超える」ことはできない。日蓮大聖人の仏法は「超える」から、結果として変

わる現象となるのだ。「法華経の智慧」では、「変わる」ことが中心に書かれて

いる。それがコンセプトだからである。しかし、絶対的な視点から見ていくと、

戸田先生の獄中体験・境涯革命などは「超える」ことを示している。「超える」

から「見える」世界があるのだ。

「変わる事は、超える事」としての「理解」から「了解」へ、それは「自分自身

」の選択である。変われない輩ほど、いつの時代でも、騒ぎ立て、無駄と言う自

分の人生を生きている。自らを迷宮に閉じ込めている。

★いつも閲覧有難うございます。お知らせです。

4月4日(月)より4月8日(金)まで投稿を、お休みいたします。
 
》記事一覧表示

新着順:653/40689 《前のページ | 次のページ》
/40689