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個人と組織
信心とは、どこまでも個人のことである。組織は本来、信心の先輩・後輩・仲間
が集う場であり、その中で個人の信心を高めたり、励ましたりすることによるシ
ェアの場である。「会合・イベントのために集う」という顛倒が見受けられてい
る。
創価関連の展示会等に行くも、展示内容も幼稚で、薄ぺらで、外部の方には申し
訳ない限りである。私の世代から見るならば「大学祭」の展示レベルである。
例⇒法華経展等、やっつけ仕事が見え見えである。
組織は組織であり、信心ではない。組織には組織の論理が、善くも、悪くも、働
いている。また組織にはいろいろなレベル・境涯の人間がいる。期待できる人、
押し付ける人、必ずしも良い人ばかりではない。だから、組織に依存する、期待
することは、ややもすると、怨嫉したり、親分と子分に陥りやすのだ。組織に対
する距離感・感覚は残念ながら引きずられて「気がつく」ものである。退転者の
多くは組織の人間関係により、利用されたり、だまされたり、裏切られ、酒、女
、金に溺れて去っていった。まだ平然といる者もいる。これは世間の一般企業、
団体と同じである。組織は世俗化していると決めていくことだ。「世俗化」は、
「思い込み」「信じ込み」という「自我機能」による働きだからだ。また同時に
「作用反作用」がある。「自己機能」不良不全症候群である。
組織の浄化、反転は、時がくれば自然に回復改善がもたらされる。なぜならば「
仏意仏勅の集団」だからだ。いつもお伝えしているように全ては反転のための前
兆なのだ。
ただ組織への依存、期待は個人の信心、質の低下をもたらす。期待、依存しない
核を持つことである。そのための現象なのだ。「来る時が来る」それが日蓮大聖
人の未来記である。池田先生の確信である。
創価の腐敗・堕落の者は、私たちの信心の純粋性をもたらすために現象化してい
るのだ。全ては池田先生が呼び起こされた生命現象なのである。SGIの混乱等
も同様な現象として現れているのだ。
末法広宣流布という生命現象により、創価の信心がセレクトされている、振り分
けられているのだ。
特定の対象、個人として見るから引きずられ、「怒り」が出て来る。「相対的現
象・現実」の世界だからである。「現象」として見ると理解できる。「俯瞰的眼
差し」を自得する時なのだ。
ある後輩が、「世間の苦労よりも、組織の苦労が大変だ」と、本末転倒、顛倒の
現象である。どこでも同じような体験をしている方々がいる。世俗化する世界に
は「慈悲」はない、「気づかない」うちに「魔」の働き作用が優位になっている。
劣化し、疲弊し、閉塞する現実は、そこ、ここにある。
人を見るな、個人を見るな、存在している「現象」を見る事が「智慧」である。
人を見る、個人を見るのは「相対的現象・現実」を選択しているのだ。「作用反
作用」の世界である。
思い込み・信じ込み「信心」からの脱却が求められているのが今なのだ。「信心
しているから、大丈夫」「信心しているからこの人は信頼できる」は、期待する
側の妄想なのだ。大聖人御在世当時から、変わらぬ現象であり、現実なのだ。
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