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悩み・苦悩の本質2
仕事柄いろいろな方々の生き方や人生を見せていただいているが、よく感じる事
が、「悩み方」「苦しみ方」を知らない、身に付いていない人々が当り前になっ
ているということである。「自分自身」の、これでは深まりも、重さも無い、浮
遊するだけの日々で終わっているのが今の多くの方々の現実である。(昔も同じ
、今も同じ、これからも同じことだが)
「悩み方」「苦しみ方」を知ると、自然に自分自身の立ち向かい方が「わかって
くる」ということがもたらされる。
例⇒このことは年齢・男女には関係ない。(ただ自分の体力に合わせることは個
人の問題なのだ。愚考者は、「どのくらい歩けばいいのか」「どれだけ走ればい
いのか」考える。好きにすればいいのだ)
1-「悩んだら、歩け、」「行き詰ったら、走れ」身体を動かすムーブメントに
より心身が活性化する。
2-「何でも、かんでも、やり尽せ」⇒「やり尽す」と「飽きる」意識が変わる。
3-「どうでもいい事」「くだらない事」は「気づく」まで続く。だから、何で
も、やり尽すことなのだ。
4-「悩み」「苦しみ」は、全ての「宝」となる。「宝」は自分自身の中にある
のだ。⇒仏の働き作用
もたらされる「悩み」「苦しみ」は、「法のため」「民衆救済のため」に必ず反
転する。ここに仏法の生命論の働き作用による「煩悩即菩提」がもたらされるの
だ。
本来は、「悩み方」「苦しみ方」は、地域のコミユニティーや家族、先輩・後輩
の中で自然に修得されたことだったが、今は、そういう文化が失われている。未
熟化・幼児化現象である。物豊かな、不幸な時代である。
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