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「法華経の智慧」から「悟りについて」の読み方の例
第3巻273ページ
名誉会長: 戸田先生の悟りの全容は、到底、語り尽くせないが、先生は法華経
ゆえに投獄された。迫害に耐えて信念を貫いた。そのこと自体が法華経を身をも
って読むことであり、全人格的な体験です。忍難即仏界です。難と戦う信心によ
って、生命に大変革が起きたのです。「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界に
いたるべし」(御書 p234)との仰せの通りです。
悟りとは単なる認識ではない。ここが大事です。永遠の生命は認識するものでな
く、それを生きるものです。修行が必要なのです。なぜならば、認識しようとし
ても、そうしようとしている自己自身をも支えているのが「生命」だからです。
「波」に「海」をつかむことはできない。「小」で「大」をつかむことはできな
い。では、どうするのか。
大いなる永遠の生命を、小さな我が身の上に顕現する ?- 涌現する ?- 以外に
ないのです。そためには、全存在をかけた自己浄化が必要です。それが仏道修行
です。
娑婆世界の衆生の心は、煩悩や業によって顛倒している。すなわち我々の生命は
、本来は「妙法根本」です。それが、「エゴ根本」になってしまうのが顛倒です
。仏界という「永遠の生命」が自己の上にしみ通ってくるのを、その顛倒が邪魔
しているのです。
★「戸田先生の悟りの全容は、到底、語り尽くせないが」⇒個別的・志向性がある
ということ。
全人格的な体験です。忍難即仏界です。難と戦う信心によって、生命に大変革が
起きたのです。「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(御書 p234)
との仰せの通りです。⇒「自己機能」の活性化により「意識機能」がもたらした現象である。
「認識ではない」⇒「自我機能」ではない
「大いなる永遠の生命を、小さな我が身の上に顕現する ?- 涌現する ?- 以外
にないのです。そためには、全存在をかけた自己浄化が必要です。それが仏道修
行です。」⇒「自己機能」⇒「体感覚知」
娑婆世界の衆生の心は、煩悩や業によって顛倒している。⇒「自我機能」
すなわち我々の生命は、本来は「妙法根本」です。⇒「自己機能」
それが、「エゴ根本」になってしまうのが顛倒です。⇒「自我機能」
仏界という「永遠の生命」が自己の上にしみ通ってくるのを、⇒「自己機能」
その顛倒が邪魔しているのです。⇒「自我機能」が優位、活性化されている。
「顛倒」している人は、自分自身では「わからない」、「わかれば」自然に軌道
が正されるものである。「気づかない」のだ。「気づく時」は、心身に及ぶ「自
己機能」が不良不全になる時である。「病により道心はおこるなり」
相手を攻めても、伝わらないのは「気づき」が促されていないからである。
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