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「作用反作用」⇒反転2
社会人2年目の頃、大学の恩師から、私が、研究室内の人間関係で怒っていたの
を見て「人をみると、引きづられ、頭にくる、判断を誤る」「人を見るな、その
人の仕事を見ろ、嫌な奴でもいい仕事をしているのを見れば、嫌な事が消える」
と、このことは臨床と言う現場での知であり、「止揚」であり、「気づき」だっ
たのです。
「人」を見ることは、特定の個人となり、「敵VS味方」という物語になります
。しかし「人」という「現象」を見ると、受容的になり「敵VS味方」の構図が
消えるのです。この時「眼差し」の異なりを自得したのです。
当事者から見ると他者からの「迫害」ですが、「現象」として見ると、当事者へ
の気づきの促しとして働き作用しているのが「わかる」のです。
夫婦関係の「夫と妻」の関係も相手を「人」として見るから相互間に軋轢が生じ
るのです。「現象」として見ると「人」としての囚われから解放されるのです。
日蓮大聖人の「法難」は、他者を「人」として見たのではなく「現象」として見
て「法華経」を身読されたのです。
このことは「人」を見下したり「人間を軽視」したわけではありません。自身と
相手を「止揚」したことによる見方なのです。このような事が「慈悲の発現」と
してもたらされることなのです。
「自我機能」でみると「○○さん」「○○派」と「人」として見てしまいます。「自
己機能」で見ると相対する個人・集団を現象として見る事ができ「智慧」により
「慈悲」がもたらされるのです。
「眼差し」には、一般的な「私」の「眼差し」⇒「人を見る」と「現象」を捉え
る「眼差し」があるということです。単眼的な見方・複眼的な見方があるという
ことなのです。
「自我機能」の思い込み・信じ込みの「慈悲」は「反作用」を「反転」させるこ
とはできません。「慈悲」を体感することが求められます。しかし「体感覚知」
すると自然にもたらされますので「反作用」を反転させることができるのです。
池田先生が語られる「大願に生きる」「広布に生きる」「誓願に生きる」等々は
、全て「現象」としての見方「眼差し」からのものであり、慈悲の指導者、指揮
者としての「慈悲」の顕現なのです。目先の「人」目先の出来事を見ていると、
現象としての本質を見失います。だから、見失わない、意識を持続させる、それ
ぞれの夢の実現を促す等ということで「大願に生きる」と呼びかけられているの
です。大聖人は「大願とは法華弘通なり」と言われています。
「大願」を抱くと「迫害」は目の前の「塵」となるのです。「迫害者」が対象か
ら消えるのです。夫婦間の軋轢も、集団と集団の軋轢も「大願に生きる」と「現
象」として見る事ができ、「敵」をも「慈悲」で味方へと反転させることができ
るのです。
一般的な「葛藤」状態は、人と人との関係は出来事の現われです。(単眼的)し
かし「葛藤」状態を「現象」として見る事ができると「気づき」への促しのため
にもたらされていることを知るのです。(複眼的)
「反作用」を「反転」させる方法は、物事を「現象」として見ることにより相手
を「赦せ、受容」できるのです。
出来事と見るのは「自我機能」であり「自己機能」で見ると「現象」となるので
す。
池田先生が「法華経の智慧」で次のように語られています。
「宇宙そのものが、本来は慈悲なのです。その意味で、宇宙は仏と魔のとの闘い
の舞台です。「権力の魔性」と「慈悲」との闘いです。「法華経の智慧」第3巻69~70
「権力の魔性」とは、現れた出来事です。(自我機能)「慈悲」とは「現象」で
す。(自己機能)「現象」として見る「眼差し」が「魔を見破り」反転し相手を
も救済するのです。
ここに「法難」「迫害」の意味があるのです。ここに気づけないから「縁」に粉
動されるのです。「慈悲」は「縁」をも反転させるのです。まさに「抜苦与楽」
の体感を敵対する相手、対立する相手がするのです。
「法華経の智慧」は、人類最高の「自然治癒療法」の技法なのです。また「体感
覚知」「悟り」の技法でもあるのです。
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