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4 ソ連・東欧の崩壊等による党勢の停滞(平成元年~)
昭和60年3月に就任したゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、停滞した経済等の立て直しのため、ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)政策を押し進めました。そして、この影響を受けた東欧の社会主義国では、民主化要求が急速に高まり、平成元年以降、ポーランドで非共産勢力が主導する政権が誕生したのを皮切りに、「ベルリンの壁」の崩壊に象徴される東西ドイツの統合やルーマニア・チャウシェスク政権の打倒等、東欧諸国の社会主義体制は一挙に瓦解しました。そして、3年12月、世界で最初の社会主義国家として大きな影響力を有していたソ連が解体され、69年間に及ぶ歴史に幕を降ろしました。また、中国では元年6月、政府が民主化運動を反革命運動として武力鎮圧した「天安門事件」が発生し、共産党独裁国家の民主化運動に対する断固とした態度を示す事件として、全世界に衝撃を与えました。ソ連・東欧の崩壊という事実に対し、日本共産党は、「ソ連共産党の解体は、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事」、「(ソ連の崩壊は)科学的社会主義の破綻を示すものではない」などとする宣伝に努めましたが、共産主義イデオロギーの破綻が明らかとなったことで党勢は停滞しました。
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