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「我」について・陽光 様 様

 投稿者:アルベア  投稿日:2016年 3月29日(火)09時35分50秒
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  陽光 様 様投稿日:2016年 3月29日(火)01時20分2秒

いつも閲覧ありがとうございます。求道する姿勢、学ぶ姿勢を感じます。生命論を学ぶという事は、どこまでも自分自身が体感・体験する事です。ここに閲覧する人々の課題があるのです。「気づく」ことが全てを教えてくれます。

1-「自我機能」という言葉の「自我」という事についてですが、私はいつも常楽我浄の「我」というものと混乱していました。自我機能は思い込み信じ込みの世界ですが、仏教哲学大辞典には、「我」は、「大我」、「真我」と説いている。真実の我の確立とは仏界を開発する意である、と。

回答⇒信心の経験が長くなると、どうしても仏法用語に対する「囚われ」が強化されてしまいます。私は仏法用語を使わずに、なるべく平易にお伝えようとしてきています。

なぜならば思考の蓄積により、人によっては用語の定義からハズレて理解してしまう人が多く見受けられるからです。また言葉・用語は、あくまでも人間が様々な生命現象を見て、感じて、取り決めた記号にしかすぎません。

なぜならば「生命現象」には言葉・用語はありません。あるのは「働き作用」だけです。その「働き作用」を人間が理解しようと、他者に伝えようとして自然にもたらされた「智慧」なのです。

教学的論理(思考・概念)の展開になると、用語が造語され複雑化して分派してきています。それぞれの言い分として出てきているのです。

「大我」「真我」という用語も現象の働き作用から、体感した人が命名したものです。「名ずける」ことにより、「理解」「了解」する、知りたい、わかりたい等という自発的な現象として生じたものなのです。

さて「我」ですが、文脈により意味が異なるのが見られます。

例えば「常・楽・我・浄」の「我」は単純に「私」「自分自身」を言います。「小我・大我」については池田先生のハーバード大学での「21世文明と大乗仏教」1993.9/24等で、「小我を打ち破り大我に生きる」(趣意)と「我」という用語を使われています。

「自 己に忠実に主体的に生きよと強く促しているのであります。た だ、こ こに「 己「」自 ら」というのは、エ ゴイズムに囚われた小さな自分、す なわち「 小我」で はなく、時 間的にも空間的にも無限に因果の綾なす

宇宙生命に融合している大きな自分、す なわち「 大我」を 指しております。そうした「 大我」こ そ、ユ ングが「 自我( エゴ)」の 奥にある大文字の「 自己( セルフ)」と 呼び、エ マーソンが「 あらゆる

部分や分子が平等に結びつく普遍的な美、永 遠の『 一なる者』」(『エマソン論文集』酒 本雅之訳、岩 波書店)と 呼んだ次元と強く共鳴し、共 振し合いながら、来 るべき世紀へ「 万物共生の大地」を 成していくであろうことを、私 は信じて疑いません。」

この文脈での「我」は、「私」「自分自身」の「核」となる、主体の感覚、または自我感覚を語られています。

このように同じ用語でも、使用する者の文脈により異なるということです。わかりやすく言うならば「我」には、語る者の内実性、使用により「深い・浅い」があるということです。生命現象の捉え方による差、異なりとも言えます。

「真我」の確立とは「体感覚知」しないと「わかりません」ややもすると用語に囚われた思考だけの「真我」という理解に留まります。仏法の生命論は、どこまでも実践する「自分自身の」体感・体験世界の変革を促すものなのです。

2-四徳の「我」と「自我機能」の「我」についてどのように考えてらっしゃるのでしょうか。

四徳の「我」は単純に「私」「自分自身」の表現としての「我」です。

池田先生は「方便品・寿量品講義」第3巻169~172ページで「衆生所遊楽」通し語られております。

「自我機能」の「我」は、「我」として、見るのではなく「自我」という近代西洋の「自我観」として理解していただければと思います。なぜならば、私たちの今いる日本の文化は欧米化した、翻訳された用語が広く浸透しているからです。

今述べてきたように「我」については、その用法により意味が異なる現象があります。それぞれの使用する側の「我」の感覚が用語をセレクトしているのです。

「用語」に囚われるのではなく、「読んで、何を感じた」が重要であり、用語の異なりなどは思考・概念上のことなのです。知識の蓄積により、本来の意味が拡散し、かえって曖昧化されているのが現代の状況です。だから誤解、曲解等が起きているのです。

御質問ありがとうございました。感謝いたします。

参考ウィキペディア「自我」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91

 
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