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池田大作全集83巻
関東会第十二回研修会 (1993年8月17日)より抜粋②
【大悪と戦わぬ利己主義は悪】
先日(八月八日、第六十九回本部幹部会)も触れたが、牧口先生は「塵も積もれば山となる」ということわざについて、こう語っておられる。
「よくよく観察してみると、塵が積もって出来た山はない。それでは、せいぜい塚くらいのものしか出来ない。現実の山は、天地の急激なる大変動のために出来たものである」と。
このことを通して牧口先生は、″小善を積み上げていけば、やがて大善の境涯に至る″という考え方に反対された。
そして、急激な大変動によって山ができるように、すぐさま大境涯へと至る方法があるとされた。それは妙法の実践であり、なかんずく″大悪と戦うこと″である。
「悪人でも大悪に反対すれば忽ち大善になる」と──。
魔の勢力とは徹して戦い切っていく。その戦いこそが、「大善」の仏の境涯をもたらすことを教えられたのである。
牧口先生はまれにみる大哲人であられた。
日淳上人は、牧口先生は「法華によって初めて一変された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によって開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考えさせられるのであります」とたたえておられる。
一方、″小善をこつこつと積み上げていけばよい″とする人について、牧口先生は、そのような小善の人間は「衆愚(多くの愚かな人々)にほめられることを喜び、大悪に反対する勇気もなく(中略)悪を好まぬだけの心はあるが、善をなすだけの気力のないのは、個人主義を脱しきれないからである」と。
大悪と戦わず、戦えないのは利己主義であり、ただ世間の人にほめられたい、よい格好をしたいという臆病さなのである。
そして、このような人は、「可もなく不可もなく、いてもいなくてもいい人間である」と厳しく指摘しておられる。
中途半端な「小善の人間」になってはならない。大悪と戦う「大善の人」であれ──これが私たちの偉大な創立者の叫びであられた。
大悪と戦うときに初めて、爆発的な勝利があり、前進があり、成長がある。″戦おう″という一念が弱い人は、自分自身が、病魔をはじめ魔につけ入られてしまうであろう。
(続く)
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