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「法難」とは
「法難」とは、「広布」の進展がもたらされる時、必ず「セット」として生じる
現象なのだ。(セット現象)なぜならば、「正」「反」「合」という基本的な生
命力動によりもたらされているからである。相対する存在は、相互作用により生
じている。生命の原理・法則が働いているからだ。基本相互作用による現象化で
ある。
仏法の現象は生命論であることは既にお伝えしたとおりである。個別に見ると「
人」となるが、相互作用として見ると、「体感覚知」「悟り」への誘い現象とい
える。主体と客体が不二であることを覚知することなのだ。「自他不二」の現象
も相互作用によるものである。(セット現象)
しかし、人間観・人間感覚で見ると、個別的な個人となる、その個人にもたらさ
れる「悟り」のキッカケが「法難」ということができる。個人に起きる、事故・
事件・病気等は「気づき」のための「法難」である。ただ、そこに相互作用が働
き作用していることは認識できない。なぜならば「自分自身」のこととしてか、
わからないからである。
相対する、対立する存在現象がエネルギーとなって「合」という止揚(悟り)を
呼び寄せているのだ。その止揚が、集団になると「広布」となり、個人になると
「悟り」「成仏」「発迹顕本」となるのだ。
つまり「法難」とは、対立する状態、双方の生命エネルギーが「統合」「全体性
」への促しとなり、そのエネルギーが「止揚」として働き作用することにより「
広布」が進む、または展開する、「悟る」という現象となるのだ。このことを私
は「法難」現象と呼ぶ。
「法難」現象は、つまり、「法」のため、「民衆救済」という当事者の一方が「
明確」にしているならば必ず現象化するということだ。「『法』のために『民衆
救済』をする」という目的を強く抱き臨むならば、広宣流布が展開すると同時に
「体感覚知」「悟り」現象が起きるという事である。このことが「法華経の智慧
」の本質なのである。「『法』のために『民衆救済』をする」という意識がエネ
ルギーの転換をもたらせ、相対するエネルギーが統合され現象化されるのである。
相対する現象そのものが反転のエネルギーとなるのだ。なぜならば、全ての現象が
エネルギーだからである。私たちは「法」そのものであり、エネルギー現象そのも
のだからだ。
釈尊の法難・日蓮大聖人の法難・創価の法難等々は、全て今述べた生命現象によ
りもたらされているのだ。それぞれの「法難」の発生の仕方、構造は同じ生命現
象であり、エネルギー現象なのだ。「法難」現象は、時空を超えた「民衆救済」
のための仏の働き作用なのだ。
「相対的な現象・現実」の世界にいると、どうしても、「個人と個人」「自分と
相手」という構図で見てしまうが、生命現象として見ていくと、個人の成仏にと
って、相手は必要なエネルギーとなり、対立する相手も同時に成仏させるという
ことが「法難」の本質なのだ。※「逆縁」・「毒鼓の縁」の成り立ちがこのこと
なのだ。
「創価の執行部を追及する側」と「創価の執行部」という構図は、見事に今述べ
た構図に当てはまる。
個人として見ると、H田・八ひろ・空家・T川と対象化した人物になるが、彼ら
を追及しても、それでは、なにも変わらないのだ。
生命現象として自分自身と相対する相手をエネルギーとして感じていくことによ
り「止揚」が起こり「悟り」「広宣流布」が現象化するのだ。だから今が「法難
」の時であり、「広宣流布」の時であり、「悟り」「体感覚知」の時なのだ。「
法華経の智慧」のドラマなのだ。日蓮大聖人は、迫害する鎌倉幕府、極楽寺「良
観」等の相対する人物をもエネルギーとして、末法万年の救済方法を示されたの
である。個別の人物ではなく、「法」のため、「民衆救済」のためという大聖人
の意識がエネルギー転換をもたらせたのである。
「相手をエネルギーとして感じていく」とは「智慧」であり「慈悲」である。「
自他不二」「善悪不二」という現象を「生命現象」「生命エネルギー」として覚
知することである。だから「自己機能」の活性化がもとめられるのだ。
「法難」現象は、迫害する者の「自我機能」による「不安」「恐怖」のエネルギ
ーである。このことが「わかる」「了解」できると、個別の人物が消え、眷属集
団の「エネルギー」を「慈悲」のエネルギーとして転換できるのである。「難即
悟」とはこのことなのだ。「エネルギー感覚」が感知できない者も「救済」され
るという現象化がもたらされるのである。
「法華経の智慧」は生命論・生命現象と読むことができなければ、いかなること
が起きてきても、本質はわからない、その時々のストーリーとして「理解」する
だけである。
「人」として対象化するから、自分の都合で相手を「悪」と見る。相手も、同時
に自分の都合で相手を「悪」と見る、「気づく」ための働き作用なのだ。
ちなみに、36年前の「54年問題」の総括だ、仇討といい、個人、または集団を
「攻めても」相手は(悪は)、今日も生きている。これが今の現実である。生命
現象として見ると「攻める」智慧が出て来る。執行部を入れ替えても同じ現象が
起きて来る。どこでも、地球上でもたらされている現象である。
「法難」は、全宇宙の意識体を含む「民衆救済」が自然に定着化するのだ。「広
宣流布」とは全ての世界に波及する現象でもあるのだ。
角度を変えて、「男・女」の関係を見ていくと、わかりやすいと思う。「男・女
」は相対的現象である。その間に「子供」が生まれる、授かる、ということは「
止揚」であり、慈悲の顕現である。弁証法的現象である。
つまり「自分自身」という現れは「法」としての現われであり、そこに至る、そ
こに回帰するために「難がある」のだ。だから「有難う」となる。「難」が「有
る」から「ありがとう」という「感謝」が湧いてくるのだ。
「法難」とは、「人間観」で言うならば「革命」である。古今東西のあらゆる「
革命」には、今述べてきたことが構造として見られている。
「仏法は道理なり」とは生命現象の理(ことわり)であり、絶え間のない宇宙創
造の働き作用なのである。そうした生命の持つ存在の道を示したものが「仏法の
生命論」であり「法華経の智慧」なのだ。
ウィキペディア「基本相互作用」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E7%9B%B8%E4%BA%92%E4%BD%9C%E7%94%A8
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