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「自我機能」による相対的な「正義」
清く、正しい、「創価の正義」を口に出し、声高らかに叫ぶ多くの方々には、反
動形成による働き作用であることを知っておくこと、賢い判断をしなければ、「
善」「悪」「魔」を見破る事はできない。「賢い判断」とは「自己機能」による
判断である。
つまり、「綺麗事」の背後には、必ず「慢心」という「増上慢」の生命現象が同
時に存在しているのだ。(作用反作用)残念ながらこうした事実は「自我機能」
の人には「わからない」「気づけない」本当の「正義」を語る「悪を攻める」と
は、歓喜がある、喜びがある、日常生活は楽しい等の現実がある。疲弊・腐敗・
堕落・閉塞といった現象からの真逆の位置にあるからだ。
外なる「悪」を攻めいても、「結果はもたらされない」この現実が、ぜんぜんわ
からない、ただ先生の著作等を棒読み、信じ込み、思い込んでいるだけである。
「敵」を対象化し、痛い目に合わないと、わからないという愚考である。
「悪」を攻めるとは、自分自身が成長・成熟することである。何十年、創価に所
属していてもわからないのだ。執行部の面々、と同じ相対的な世界にいる。それ
ぞれが「正義」を言い合っているだけである。気づけないのだ。
二項対立の次元である。「止揚」という「智慧」がないのである。ちなみに「止
揚」とは二項対立の同次元から、「上の次元へ促す」という意味がある。「止揚
」とは「智慧」の現象化なのだ。慈悲の顕現なのだ。
組織と言う集団化現象では、それぞれの「思惑」が自動的に増幅される。所属す
るだけで気づかないうちに影響を受け、生命が汚れていくのだ。汚れた生命は浄
化されることなく、汚れ続く、これが生命の法則なのだ。
「思惑」は当人が「後ろめたさ」を持っているということである。だから隠そう
とする。嘘をつく、発覚しないように、あれ、これと画策する。世法・世間と同
じ次元であるからだ。
不浄の輩は集団化し、「善」なることにおびえる、自分の都合優先の選択の姿だ
、後戻りはできない、その「思惑」が衝撃を受け、傷つくまで続く(慣性の法則
)思い込み・信じ込みの世界を選択する者たちはいくら年を重ねても全人格的に
「幼稚なまま」なのだ。「ボクちゃん・キミちゃん」レベル
「善悪の判断」すらできずに、その時々の気分で右往左往、相対的世界だからだ
。自我中心の善悪判断なのだ。「法」中心の善悪ではないのだ。なにせ「法」を
知らない、言葉、用語で「法」と理解しているだけで体験として「了解」してい
ないからだ。「ほ~う」そうなのだ。
「体感・体験」無き者は自我により、その振る舞いが「悪」となる。「体感・体
験」がある者は「善」となる。
「自我」は嘘を語り、「自己」は常に真実を語る。この区別ができない世界、教
育が偏っているからである。
「思い込み」「信じ込み」を利用し、教育と称する人間性の破壊を繰り返す現代
文明こそが「悪」の働き作用である。不祥事の続く企業・集団・組織は、当事者
すら「気づかない」うちに「悪に侵されている」のだ。このことを「魔」の働き
作用という。
創価の執行部の方々、創価に所属する方々は気づけない、まして自分自身が「魔
」となっているとは感じない。また「魔」自体も「魔」とは感じていない。生命
現象とはそういうものなのだ。
誰でもそうだが、見る人が見れば「わかる」ことなのだ。「見る人が、見れば」
とは、「体感覚知」した人だ。「自我機能」の人は「見ても、わからない」だか
ら、気づかないうちに「騙され、侵されて」いくのである。「裏切り」の現象化
が進行していくのである。期待・依存が強いほど「裏切り」の衝撃は大きい。本
人の選択である。
ただ多くの執行部の面々、職員、関連企業・団体の職員等は「何か、変だ」「お
かしい」などの違和感・不全感は感じているようである。しかし、既に手遅れな
のだ。
「魔」の働き作用は「人間観」「人間感覚」ではわからない、なぜならば生命の
働き作用だからだ。まして作用反作用・反転現象が常に起きているから特定しに
くいのである。「相対的現象・現実」「絶対的現象・現実」に気づくだけの信心
がなかった方々の能書き信心の姿が創価を取り巻く人々の実態なのだ。「気づく
、気づけない」は弟子の責任である。責任なき、責任役職の面々、自称「弟子」
の裏切りが54年問題の本質なのだ。それは、いつの時代でも現象化している現象
なのだ。(とらわれると54年問題となるだけの事)
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