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「不二」ということ4 非二元
実際に「善悪不二」という「不二」感覚になると、先に紹介した「目覚めた人」
シュリ・バガヴァンが語る世界と同一の感覚になります。「不二」という現象は
体感・体験するものなのです。言葉上でいくら「不二」と思っても、その感覚は
でてきません。「目覚める」ことにより「不二」が実感できるのです。
そうすると「不二」という現象が、そこ、ここにあり、既に「自分自身が不二」
でもあることに「気づく」ものなのです。「相対的現象・現実」の中にいると、
分離・分断感があり「気づけない」からなのです。
気づけば「なんだーそうか」という感じになります。言葉や文字にとらわれると
意味不明になりわからないのです。しかし、感覚的に感じると「了解」するので
す。
「不二」という言葉、文字では表現できない体感世界を伝えようとしている「働
き作用」なのです。
※「不二」の実例 人体⇒脳は左右交叉支配 眼・耳・鼻・手・足=「不二」現象です。
動物・植物⇒男(オス)女(メス) めしべ・おしべ
電磁的世界⇒プラス・マイナス 陰陽
位置感覚⇒上・下
「自分自身」という世界観、立ち位置は、孤立したものではなく、本来は「全体
性」「統一性」のある「球体」として存在しているということである。⇒「球体
」は細胞・分子レベルでは基本的な形態である。
全体性からみた構造
多重階層で見ると 細胞⇒臓器⇒人間(男女)⇒親子(家族)⇒地域社会⇒国⇒地球⇒太陽系⇒宇宙
全体性から見ると 宇宙⇒太陽系⇒地球⇒国⇒地域社会⇒親子(家族)⇒人間(男女)⇒臓器⇒細胞
「不二」現象の本質を日蓮仏法の視点から見ると、「悪鬼入其身」で表現される
「入其身」現象とも言えます。日寛上人は「蓮祖が其の身に入るなり」と文段で
表現されています。つまり「其の身に入る」という現象が起こるという事であり
、まさに「不二」の現象なのです。
「師弟不二」というならば「池田先生の生命が其の身に入る」ということです。
生物学的現象として見ると「転写」現象です。「自分自身」に「池田先生の生命
を転写する」ということです。言葉上ではなく現象として見られるということで
す。残念ながら今日「人間観」「人間感覚」で見ると「其の身に入る」現象はも
たらされていないようですが・・・「生命観」「生命感覚」から見ると既にもた
らされているのですが・・・※このような表現が「二重拘束」なのです。
「気づかない」「気づけない」現実があるのです。
おそらく日寛上人は「蓮祖が其の身に入る」をご自身の体感・体験として「体感
覚知」があったものと思われます。この原理・法則は「境智冥合」「感応妙」等
の働き作用と同じ現象だと見ることができます。
戸田先生の獄中体験では「虚空会の儀式」の場面が描かれていますが、見方によ
れば「釈尊が其の身に入る」現象だったのかもしれません。
「相対的現象・現実」「自我機能」では、もたらされない現象です。「自己機能
」により「意識機能」が働き現象化するのです。
「生命現象」「生命感覚」から見ると、改めていいますが、既にもたらされてい
るのですが、ただ「気づけない」「わからない」のです。
「其の身にはいる」という一般的な現象について一応、触れておきます。
「其の身に入る」という言葉は、神秘主義的・オカルト的な表現ですが、現実に
もたらされる現象なのです。
映画の「オーメン」「エクソシスト」「コンスタンチン」等は「悪鬼入身」の例
と言えます。また真言密教系ですと「不動明王と一体になる」または「悪霊が憑
依する」等と「其の身に入る」現象が語られています。またチベット仏教の「ダ
ライラマ」等は化身と言われています。(代々の猊下が生まれ変わるという現象)
ちなみに一般的には「其の身に入る」と「入られた人の意識は冥伏します」
例⇒巫女・チャネリングによる現象等です。
私は「憑依現象」を「意識体の関与」と言っています。どうしてか「憑依」と言
う言葉が「邪宗」ぽいからです。誤解を受けるからです。
臨床的には意識体が関与する症例はよく見られる現象ですが、当事者や家族には
伝えません。伝える事により混乱するからです。また「関与」されている当事者
はわかりません。意識することができないからです。当然、家族もわかりません。
「相対的現象・現実」世界には、このような「霊的な世界」も含まれているので
す。
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