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「不二」ということ2⇒「非二元」
維摩経に不二(二つでない)についての逸話が残されています。
煩悩と菩提も実体のない根拠のない無相、無住の心が名付けた虚妄の世界での
便宜上の仮称でしかないのです。虚妄でない正覚の世界では、煩悩と菩提という
ように対立するものも区別するものもなく、煩悩と菩提が虚妄の世界での仮称で
あれば、煩悩を菩提と呼称し、菩提を煩悩と呼称するのも一向に差し支えなく、
それを不二(ふたつでない)と云うのです。 維摩経で、文殊菩薩が維摩を見舞
いに訪れると、文殊が部屋に入るや否や、維摩は語った。
「よく来て下さいました。文殊師利、あなたは不来の相で来、不見の相で見ます
ね」と。
この事なども、来も不来も、見も不見もすべて、無相、無住の人間が勝手に名付け
た幻のような虚妄の世界の仮称なので、相反するような言い方をしても、何等、
矛盾していることにはならないことです。不二の本質を把握している維摩は、本
来の語彙の意味に執着せず自在に使いこなしているのです。
いつも言いますが、思考は言葉となって現れている。また思考は言葉により成り
立っている。言葉の意味に限定されると「思いが伝わらない」という現象が起き
る。「思いを」伝えようとし「不二」的な表現にならざるをえない状況が多々、
当たり前に起きているのです。なぜならば「現象」とは言葉・思考ではない、思
考や言葉は人間が作り上げた世界であり「現象を語っている」という「人間観」
だからなのです。「現象」は「生命活動」であり、「生命感覚」でしか「了解」
できないのです。
例⇒SEX行為は生命活動であり、その体感する世界は言葉では表現できない。
「快感」としか表現できない。しかし言葉や文字に置き換えると「人間」による
思考・概念の世界となる。「生命現象」という生き生きした、ダイナミックな現
象が置き換え・解釈により欠落してしまうのである。こうした現実を他者に伝え
ようとすると「不二」的な表現となるのだ。
「不二」とは、「非二元」という言葉で用いられる場合もあります。1990年代か
ら欧米で「非二元」「悟り」という言葉がスピリチャル系・禅宗系の仏教徒だっ
た体感・体験者等が語るようになり広まってきた概念です。スティーブ”・ジョ
ブズ等は日常的に「座禅」を取り入れていたことはよく知られているエピソー
ドです。彼は「禅宗」の信者・信仰者ではありません。「非二元」へのアプロー
チ技法として「座禅」を取り入れていたのです。「非二元」の「思考観察」の方
法としての「座禅」「瞑想」なのです。欧米の「座禅」は、自分を観察する技法
として、自己練磨する方法として定着しているのです。特定の宗教枠組みによる
縛り、硬直した概念ではないのです。一部の硬直化した人々は、「座禅」という
と「禅宗」という短絡的な理解を勝手にする傾向があります。知的な思い込み・
信じ込みの現象です。「不二」「非二元」という現象は、宗教的な枠組みでは
ないのです。生命現象なのです。
非二元とは、もともとサンスクリット語であるアドヴァイタ(ad=not, vaita
=two、「二つではない」を日本語に訳した言葉です。英語では、Non Duality
(ノン・デュアリティー、二つではない)と訳されています。
「主体」と「客体」の二つではない、「私」(見る者)と「世界」(見られる物)
という二つがあるのではない、ということです。
非二元とは「二つではない」という意味するもので、全体性との合一、生起する
あらゆるものがもつ根源的な相互依存性を体感・体験することにより「了解」で
きるものなのです。「体感・体験」無い人には「わからない」ことなのです。モノ
化する思考次元の人と生命現象を感知する次元の人との違いを知る事です。なぜな
らば「知らなければ」常に「思考」に一喜一憂・右往左往するからです。
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