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「善悪不二」ということ
「善悪不二」の「善悪」は表裏一体であり、「縁」により常に反転を繰り返して
いる現象である。
この現象は「思考の二重性」を示すものであり、多くの人々は「思考」というの
は単一だと思っているが、実はパラレルであり、常に反転運動が起きているのだ
。いっぺんに2つの思考が同時にあるのではなく、1つの思考が「善悪、善悪」
と反転しながら思考が時間軸に従い出て来るのだ。このような現象が「相対的現
象・現実」の働き作用なのだ。「作用反作用」と言う現象も相互間で起きている
現象である。この「善悪」の働きも相互作用と言う二者関係で起きているのだ。
⇒「正」「反」「合」というトライアングル現象である。
宇宙の運行・人間の生命現象は「自己機能」であり「法」です。善悪は「自我機
能」であり相対的です。つまり「自分自身」が中心にあると慢、傲慢が現象化す
るのです。「法」が中心にあると智慧が現象化するのです。
「善悪」を「不二」に止揚するのが「自己機能」という「法」であり「体感・体
験」なのです。
地球上で起きているテロ・紛争、山口組の紛争、家族の葛藤、様々な人間関係等
々全ては「不二」を知らないゆえにもたらされている現象なのです。「法」には
差別はありません、「法に従う」という事を排除・無視する「自我機能」の働き
作用により起きている現象なのです。集団内の権力闘争は古今東西よりある現象
です。
「功徳がほしい、功徳がない」と悩み苦しむのは「自我機能」による信心です
。「法」が中心ではないのです。「思惑」という信心なのです。「思惑」は慢心
を引き寄せ、人間をモノ化するという現象になるのです。「無明」が「法性」に
反転しないのです。なぜならば「不二」にする「智慧」を体感・体験を通して自
得することがないからです。だから己心の善悪不二が求められるのです。己心の
善悪が不二になると客体である全ての外界が反転するのです。
外界の「悪を指摘する」ことは「敵」を創造することとなるのです。「悪を滅す
る」とは、己心の悪を仏の働きで冥伏させることなのです。「法華経の智慧」で
は、戸田先生の獄中体験、釈尊の体験を通し、今述べたことが展開されています
。それは「己心の世界」での「体感覚知」であったということです。
「法華経の智慧」第3巻、9~74ページ見宝塔品上下
しかし、その原理・法則が体感して了解されていないから、いつの世でも「敵」
を見出すのです。「敵」とは目に見えます。闘いやすいです。しかし自分自身の
中にある「善悪」は見えません。まして「外なる対象の悪」と「己心の悪」の働
きが同じである事には気づけないのです。
こうした見方は思い込み・信じ込みの「自我機能」の信心の方々にはわからない
、理解不能なのです。なぜならば生きている世界、次元がことなるからです。「
自己機能」が活性化すると「了解」できるのです。また「了解」した瞬間に己心
の善悪は「不二」になり、外なる善悪が「不二」となる現象が現われてくるので
す。このようなことは「相対的現象・現実」のなかでの「自己機能」により「意
識機能」が働き作用することによりもたらされるのです。このことを証明したの
が牧口先生・戸田先生・池田先生なのです。
創価の信仰・信心していても、思い込み・信じ込みの方々は「わからない」ので
す。全ては「自他不二」であり「善悪不二」なのです。「自我機能」は、不幸の
根元でもあり、「悪」の発生源でもあるのです。「絶対的現象・現実」は、絶対
的幸福の根元であり「善」の発生源なのです。
「善悪不二」と知的理解しても現象化はもたらされない、なぜならば体感・体験
者がいまだにごく少数だからなのです。教学的に理解しても知識なのです。現実
ではないのです。錯覚し妄想しているだけなのです。具体的な現象として証明さ
れていることに「気づかない」「気づけない」から愚考を選択する世界は続いて
いるのです。
「知的理解」から「生命現象」を「了解する」体感・体験が、今の疲弊し閉塞す
る状況を大転換させる方途なのです。ここに歓喜・喜びがもたらされるのです。
「民衆の救済」とは、他ならぬ自分自身の「救済」を意味するものなのです。ど
うしてか、それは「自分自身」の現状を見ればわかることです。
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