|
|
「祈り」3
池田先生の「法華経の智慧」から「祈り」について見てみると、(「法華経の智
慧」第6巻)
「甘えた、観念的な祈りでは、御本尊への本当の感応は無い。全生命をもって、
ぶつかって、打開の道が開けないわけがない」90ページ
「たった一人でも、本気で立ち上がり「一心に」信心する人間が現われたら、運
命共同体である全員が助かる。一家、一族、会社、地域、団体、全部、救ってい
ける。この「一人立つ」方程式を教えている。」同91ぺージ
94ページ「戸田先生は観音品の内容に従い、わかりやすく、こうまとめて言われ
たことがある。」
1-おおいに事業商売をして、金もうけをするときに、災難が起こる、その時、
御本尊様頼りまいらせると、その災難をのがれることができる。
2-相手がひどい目にあわせてやろうと考えたり、また大きな損が起こってくる
ような場合、反対に相手がひどい目にあったり、損が得になったりする。
3-煩悩および病気の苦しみにあう時、御本尊様を信ずるならば、煩悩も悟りと
なり、病魔もこれを冒しきることができない。
4-ガケから落ちたり、乗り物の事故にぶつかたり知する時、御本尊様を信じて
いるときは、けがをしないですむ。
5-自分の職業の位置から落とされようとしたとき、御本尊様を信じている者は
、逆に相手がやめなくてはならなくなったりして、落とされないですむ。
6-相手が憎んだり、害を加えたりするときに、信心が強いと、相手の心が変わ
ってしまう。
7-(不当に)死刑にならなければならぬような運命も、信心の強気者は死刑に
ならなくてすむ。刀尋段段壊(とうじんだんだんね)といって、大聖人様のお示
しくださったお姿である。
8-(不当に)牢獄へ入らなければならない宿命の者でも、信心の強い者は入ら
ないで返されてくる。
9-毒薬を飲まされようとしたり、悪口を言われたりすれば、かえって相手が悪
口を言ったような目にあったり、毒を飲まされたりする。これは還箸於本人とい
うのである。
10―大嵐の時でも、信心の強い者は、その害をうけなくてもすむ。
※「還箸於本人」とは、主体と客体の相互の働き作用であり、作用反作用、反動
形成という生命現象の原理・法則なのだ。言葉、文字で「理解」するのではなく
、体感することにより「了解」できる生命の在り様である。
「御本尊様を信ずる」とは、他ならぬ「自分自身を信じ切る」ことである。なぜ
ならば胸中の御本尊の働き作用を湧き出だす方法として「境地冥合」という現象
が働くからだ。
外なる御本尊は「対象化」されたモノである。その「対象化」を通し、自身の生
命の働き作用としての御本尊⇒仏の生命を現象化させることにより南無妙法蓮華
経を体感することとなる。
祈っていると雑念がわく「雑念が湧いたってかまわない。人間だから当然でしょ
う。そのままの姿で、御本尊にぶっかっていけばいいんです。雑念だって一念三
千の生命の働き以外のものではない。ゆえに、そういう雑念でさえも、題目によ
って功徳に変わるのです。
祈り方に「こうあらねばならない」という形式はない。無作でいい。かしこばっ
て、こちこちになって拝んだって、心の動きはどうしょうもない。信心が強くな
れば自然のうちに一念が定まってきます。
また祈っていて浮かびあがってくる雑念とか思いとかは、その時の自分が気にな
っている課題なのだから、雑念となどと言わないで、なんでも、きちっと祈りに
かえたほうがいいでしょう。122ページ~123ページ
「祈りとして叶わざるなし」の信心です。まずそう決めることです。そのうえで
、ある時点だけを見れば、祈りが叶う場合も、叶わない場合もある。しかし、そ
れでも祈り「続ければ」最後には必ず一番いい方向に行く。あとから振り返って
みると、それがわかるものです。
何より、そうやって苦労することで自分が強くなっている。祈って、なんでもす
ぐに、パッと叶ったのでは、人間が堕落してしまう。努力も苦しみもない安易な
人生になってしまう。薄っぺらな人間ができます。それでは何のための信仰か。
次々と、いろんな出来事がある。いろんな悩みが出て来る。その連続です。人生
は。いろんなことがあるから」、人生は充実するし、楽しい。成長もできる。広
々とした、強い境涯が開ける。125ページ
「祈りに応える」のは、他ならぬ「自分自身」の生命の働き作用なのだ。なぜなら
自分自身が「御本尊様」だからだ。
|
|