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「祈り」2

 投稿者:アルベア  投稿日:2016年 3月24日(木)05時05分38秒
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  「祈り」2

御本尊に朝晩向き合い勤行をする時、思考で向き合うのではなく、身体感覚で向

き合うことが心身のバランス・健康回復改善に、また健康長寿になっていくとい

う「蘇生の義」となるのです。

今、述べている「思考で向き合う」「身体感覚で向き合う」ということは自身で

感じて、感じ取るということをしないと、なかなかわからないものです。私たち

の頭の中は思考と身体感覚がゴチャゴチャになっているからです。

私も「ご本尊に向き合う事で」ずいぶん悩んだ時がありました。祈る事、思う事

、考える事、信ずる事、一念三千、どこが、どう違うのか、15、6歳の頃でし

た。その答えは「言葉が違うだけで、思いの根っこは同じなんだ」と気づいた時

から、体で臨む(御本尊に向き合うという事)ことが全てなんだということを知

りました。

つまり言葉は、その時々の思いの色付けであるということです。カラーピラッド

を思い出して下さい。色はその波長により異なっています。「言葉というは心の

思いを現したるもの」とあるように、思いの波長により言葉としての現れがある

ということです。「声仏事をなす」とは言葉を発する人の思いが出ているという

ことです。当り前のことですが、この当たり前の事が今の時代、おろそかになっ

ているのです。「言葉」とは身体感覚によるものなのです。現代人は思考を言葉

にしている。身体感覚と言う「実」がないのです。池田先生が「内実性」につい

て語られても「内実」が希薄、欠落している人々には「わからない」のです。「

内実」とは身体感覚と言う土台があってわかるものなのです。

同じ「声仏事をなす」でも思考の人、身体感覚の人では異なるのです。思考の人

の「声」は相手に伝わりません。思考には自身が不在だからです。しかし身体感

覚からの「声」は伝わるのです。自身が存在するからです。

「相対的」二人称世界 「絶対的」一人称世界2012.8/12.

「信心を、きちっと、ちゃんとする」それは、朝、晩の勤行であり、身体感覚を

通した勤行・唱題が求められるのです。「時間だから」「やらないと罰がでるか

ら」「一応リズムに乗るため」等と言う自分都合優位の勤行・唱題は身体感覚で

はなく「やらなくちゃ」という「思考ゲーム」になっているのです。

いつまでたっても「なんとなく信心」になってしまっているのです。身体感覚が

あると緊張感がある、真剣がある、「事の一念三千」がある、歓喜があるのです。

「先生と呼吸を合わせる」とは、ただ、すればいいわけではない、「呼吸を合わ

せる」とは身体感覚による勤行であり唱題なのです。身体感覚の希薄化はズレ・

ブレをもたらせているのです。(思い込み信心)

では、どうすればいいのか、どうすれば身体感覚による勤行・唱題となるのか、

一般論です。体が不自由な方や、病気の方、疲れた時などは、姿勢にこだわるこ

とはありません。

1-姿勢?読誦の時

正体(正面を向く)の姿勢・背筋を伸ばす。「向き合う」ということの緊張感

慣れると苦痛ではなくなる。

2-意識?唱題の時

姿勢は「正体」で、意識は口で題目・意識で歓喜・歓喜・大歓喜と題目を唱えて

いる時に合わせて行う。このことは自分自身の生命に言い聞かせることになるの

です。

1・2で、しばらく試みてください。身体感覚が活性化されるにしたがい意欲が

出てきます。智慧が湧いてきます。

※勤行・唱題で「おかしい」「不愉快な感じ」「変な感じ」を受ける人の場合、身

体感覚がズレています。本人にこうした「おかしさ」を注意する人がいないのは残

念です。幹部であればあるほど野放しです。

※見ている人が「気持ちいい」と感じる勤行・唱題を心掛けていただければと思い

ます。

※身体感覚の活性化は新陳代謝を活性化させます。「声出し」は「元気出し」「意

欲出し」になるのです。

※声の音量は、普段の声がいいです。盛り上がると自然と大きくなりますが、普段

の音量が一定であると身体感覚の持続になります。隣・近所等が気になる方は、自

分が勤行して「気持ちのいい」ところでよろしいかと思います。

勤行・唱題の時、御本尊に正体します。この時点で「私」と「御本尊」という二

人称世界となります。「私が向き合う」という構図となります。対象化すること

により、自分自身の身体が反応します。

この構図は「私」と「池田先生」ということに通じます。

少々、哲学的に言うならば「私は、あなた、あなたは、私」という「不二の関係

」となります。この現象を「不二感覚」といいます。この不二感覚は、思考では

ありません。「体感」です。身体感覚の反応です。

「呼吸を合わせる」とは、不二感覚を体感するための身体操法(心身の使い方)

なのです。「師弟不二」とは思い込みや思考、言葉上のものではないのです。体

感的現象なのです。

この体感的現象という体験が無い人には「わからない世界」なのです。「わかる

人はわかる」という世界です。

戸田先生の「獄中体験」「悟達」は一人称・二人称の体感・体験です。
 
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