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日蓮大聖人が必ず叶うと断言されているのは
法華経の行者の祈りである。
池田先生が最後は必ず勝つと断言されているのは
信心しきった者
大御本尊様を受持しきったもの
また、正しい仏法である。
さて、松野殿御返事(十四誹謗抄)によれば
まず、正法に違背せず十四誹謗が無ければ
聖人の唱える題目も凡夫の唱える題目も
功徳は同じと説かれている。
十四誹謗の内容を見ると
怠ける心であったり
持論の正統性のために逆利用したり
浅いものさしで計って分かったつもりになったり
そもそもよくよく考えると不信であったり
自分を偉く見せるためのであったり
人を従属させるためであったり
生命の尊厳を否定したものであったり
善への憎しみからきていたり
善への恨みからきていたり
善への嫉妬からきていたり
善を軽んじていたり
ざっくり平易に解釈すると
そういう方向性のものと思う。
同抄には不軽菩薩の事も書かれているが
雪山童子の方が多く書かれている。
不軽菩薩は全員のそのままの生命が
生命の真実である一念三千の
顕れそのものであることへの
尊敬の実践であると思う。
雪山童子は
濁った世間を離れ人の生き死にの
根本問題を思索しているところに
真実の偈を携えた鬼神が現れ
上半分を説く。
子牛が親の乳を求めるような心境で
周りを見渡して、鬼神を見つける。
雪山童子は残りの半偈を聞くために
自分の血肉を食べさせる約束をする。
そして残りの半偈を聞き終えると
他者のためにその偈を周囲に刻んで
鬼神に向かって身を投げる。
さて、これを解釈する。
純真な求道心を持って出会う半分の真実は
御本尊である。
そして今世の汚れた身や考え、
今まで積み上げてきた財産や地位などへの
執着を全て投げ打って、
子牛が親の乳を求めるような
自然の発露として祈り切る時
残り半分の真実である
自分自身が他ならぬ
南無妙法蓮華経である実感を発見するのである。
そして、皆にもこの発見をしてもらいたいと願い
文字を刻むのである。
法華経の行者とは
自身の中に法華経を開き
他者や世界にも開き行く者である。
この世界に法華経の世界である
生命の実相を開き切る祈りを
池田先生と同じ波動で成していく祈りが
あれば、人数が例え少なくとも
負ける理由がありません。
最後は、信心しきったものが、大御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、かならず勝つという信念でやろうではありませんか。
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