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「祈り」
取り急ぎ「祈り」について投稿したものを再投稿いたします。
谷川の住人 様:2016年 3月21日(月)18時24分42秒
ラカニエンヌ 様:2016年 3月21日(月)18時10分34秒
「婦人部長は政治の世界の日顕宗が日本共産党だと獅子吼し、共産党撲滅十時間唱題会を呼びか
けていました。」
ここまで腐敗・堕落していることに驚きである。「祈り」の冒涜である。いやもはや「謗法」で
しかない。「祈り」の歪曲化である。池田先生の指導から乖離した独善的カルト教団化現象であ
る。ヒステリックに叫ぶ婦人部長の姿は、現執行部の「生命」が投影された姿である。なぜなら
ば「生命現象」には嘘はない、常に真理だからである。「自我機能」の歪み、捻じれが強く出て
きている。リーダーの生命の基底部の顛倒が見られる。
広布の闘い「民衆救済」の大目的が「選挙の闘い」に逸脱している。疲弊し閉塞する姿が今の創
価なのだ。
全ては「体感・体験」無き舵取りのリーダー集団の生命の投影である。この腐敗と堕落が、真正
の弟子たちの出現を促す前兆現象なのだ。
[159]「祈り」アルベア投稿日:2016年 2月 7日(日)03時56分53秒
「祈り」とは、外なる対象に向かう自己のエネルギーである。ここに「祈り」という「自己機
能」が働き作用している。地球上の宗教と言う枠組み、人間の営みに見られる現象である。光合
成が意識化しているのである。現代人の「祈り」には「自然からの乖離」が見られている。「自
我機能」になっているのである。
本来「祈り」は、「自然のあるがまま」の「自己機能」の働き作用である。
しかし、素朴な(自然な)祈りが「自我」により強化されると形式化する、権威主義となる。指
導者に順位序列が生じる。そこでは「自己機能」から「自我機能」の「祈り」へとシフトし、仏
法の目的である衆生の救済がおろそかになっていく。「体感覚知」が無い者が「跡継ぎ」となる
からである。世俗化の本質があるからである。「祈り」という本来の自然現象が、宗教の目的と
して利用されているのです。地球上の宗教の形態に共通して見られている現象である。
「思わず手を合わせてしまう」「思わず祈ってしまう」という体験は皆さんあると思うが、この
「思わず」が自然現象としての「祈り」なのだ。「自我機能」による意図的な「祈り」は、思
考・概念の廻りあいであり、効果はない。いかに「自己機能」からもたらされる「自然現象」と
しての「祈り」を維持できるかが、多くの信仰者、行者にとっての課題なのだ。「自我機能」の
「祈り」は疲れ、疲弊し、歓喜からほど遠い、みかけの「祈り」になるからだ。「自己機能」の
働き作用による「祈り」は、喜びと歓喜となり、自分自身の内部に定着化される。
古今東西の「悟り」「覚醒」がもたらされた方々の「祈り」は「反転」する。「祈り」の対象が
消失し、「救済」「慈悲」の働き作用となって、対象者に向かってエネルギーが照射され救済が
起きる。つまり「祈り」の「反転」とは「祈り」に応える働き作用となって現象化するのだ。
「求道者」から「救済者」への反転だ。身近な実例としては、池田先生の振る舞いに見られる現
象です。
「体感覚知」すると、自然治癒力が活性化され、ズレ・ブレが修正され「中心軸」が形成され
る。そうした諸々の現われが、他者に対して「慈悲の影響」という働き作用となって現象化する
のです。
みかけの「祈り」の人は、世俗化、世俗主義の人となる。「自我機能」の働き作の信仰だから
だ。気づいたら「祈り」を「自己機能」の働き作用に変えればいいのです。ちなみに「感謝」と
いう現象は「自己機能」の働き作用です。「ぬくもりのある人」は「自己機能」の人、「つめた
い人」は「自我機能」の人だ。
まあ、私にとっては、どうでもいい事です。全ては、その人に「もたらされている現実」ですか
ら、「気づく」「気づかぬ」は本人の問題なのです。
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