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谷川の住人 様
いつも鋭いご指摘ありがとうございます。面白くも、おかしくも拝見させて頂いています。 (投稿日:2016年 3月20日(日)18時09分4秒 )を拝見していると痛み入ります。いえ、その前の娘さんのお話もそうですか。感じるままに次の先生のご指導を記させて頂きます。あくまでも、説教ではありませんから(笑い)。
一生成仏抄講義で示されている次の箇所です。
「唱題行において、絶対に忘れてはならないことは、『妙法蓮華経とは自分自身のことである』という一点です。この一点を忘れたら、いかに題目を唱えても、大聖人の教えられた唱題行とはかけ離れたものに陥ってしまいます。
ゆえに、本抄で大聖人は『但し妙法蓮華経と唱え持つと云うとも己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり』(御書一生成仏抄P383)と厳しく戒められているのです。南無妙法蓮華経の題目を唱えても、妙法蓮華経が己心の外にあると思って唱題している限り、それは妙法にならず、麤法になってしまうと仰せです。
麤法とは、不完全な法という意味です。妙法が完全な真理を意味するのに対して、麤法は部分的な真理に過ぎません。
この仰せには、宗教の陥りやすい悪弊を乗り越えるための深遠な宗教論があります。そしてまた、真の幸福を得るために必須の信仰論があります。
宗教は、一般的に、『大いなるもの』『絶対的なもの』『聖なるもの』を人間に結び付けるための人類普遍の営みであると言われています。
ある意味では、それは正しいでしょう。しかし、多くの宗教では、聖と俗、神・仏と人間などが、最初から分離され、それを改めて結びつけるという教えであるように思われる。
それに対して大聖人は、『絶対的なもの』や『聖なるもの』を最初から分離する宗教のあり方を、まだ完全なものでないととらえられていると拝することができる。
日蓮大聖人は、唱題行を修業として立てることにより、十界互具という一生成仏の原理を実現する道を開きました。ここにこそ、民衆の成仏を目指す仏教の完成形態があるのです」(P48~51)。=略=
「この唱題による成仏を実現するために最も肝要となる戒めが、『己心の外に法を見てはならない』ということなのです。己心の外に法があるという考え方は、爾前経の“断絶の世界”にすべてを引きもどしてしまうからです」(P54)。=略=
「妙法蓮華経とは自分自身」と仰せです。どこまでいっても、自分が大切なのです。
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