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渋長さん

 投稿者:大勝利  投稿日:2016年 3月18日(金)23時15分19秒
  通報 編集済
  仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る賊来つて国を刧かし百姓亡喪し臣・君・太子・王子.百官共に是非を生ぜん、天地怪異し二十八宿・星道.日月時を失い度を失い多く賊起ること有らん」と、亦云く「我今五眼をもつて明に三世を見るに一切の国王は皆過去の世に五百の仏に侍えるに由つて帝王主と為ることを得たり、 是を為つて一切の聖人羅漢而も為に彼の国土の中に来生して大利益を作さん、若し王の福尽きん時は一切の聖人皆為に捨て去らん、若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」已上。

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国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る
 「鬼神乱る」とは、人間の思想が邪宗、邪義、邪智によって破壊され、混乱し、異常をきたすことを意味する。いいかえれば、人間生命の濁りであり、五濁に約せば煩悩濁、見濁であるといえよう。
 御義口伝には、次のごとく法華文句を引いて五濁を説明している。「劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す」(0717-第四五濁の事)と。
 まず、この文の意味についていえば、「劫濁」とは、何か一つの実体があるものではない。劫とは、短時を意味する刹那に対して、長い時の流れをいうのである。すなわち、劫濁とは、時代の濁りであり、他の四濁が盛んである時代をいうのである。「衆生濁」とは、やはり、とくに別の実体があるのではない。我見、慢心が盛んになることによって、衆生社会の上に、それに対する果報を受けている状態である。「煩悩濁」とは、貪・瞋・癡・慢・疑の五鈍使に追い使われている状態であり、「見濁」は、身見、辺見、見取見、戒禁取見、邪見の五利使がその実体である。また、命濁は、色心を連持、すなわち、色心の上に、濁りがあり、生命力を損耗していくところである。
 しかして、文句には、また次のように説かれている。いわく「煩悩、見を根本と為し此の二濁に従いて衆生を成ず。衆生に従いて連持の命あり、この四つの時を経るを、謂いて劫濁と為すなり」と。
 しかして、文句には、また、次のようにも説かれている。いわく「煩悩、見を根本とし為し此の二濁に従いて衆生を成ず、衆生に従いて連持の命であり、此の四の時を経るを、謂いて劫濁と為すなり」と。
 すなわち、煩悩濁、見濁が根本となり、この二濁によって、衆生濁が形成されている。この衆生の生命活動の流転の上に命濁が形成され、この四濁が盛んに起こり、互いに薫発し合い、時代を経るにしたがって、劫濁が形成される、ということである。ここに明らかに煩悩濁、見濁が根本となってあらゆる混乱があることが示されている。
 したがって、この「鬼神乱る」にあたる煩悩濁、見濁がいかなるものかを知る必要がある。
 煩悩濁も見濁ともに個人についてみた濁りである。煩悩濁の体である五鈍使も、見濁の体である五利使も、ともに見惑の十使をわけたものである。見惑とはいいうまでもなく、思想の誤りであり、思考の乱れである。しかして、そのなかでも貪・瞋・癡・慢・疑の五鈍使は本能的な思考の乱れであり、身見、辺見、見取見、戒禁取見、邪見の五利使は、才智ある邪見、鋭利的な思想の乱れである。
 自分の利益ばかりをむさぼるように求めて、他人をかえりみないのは「貧」であり、事態を冷静に判断できず、すでに感情に走り、生活を破懐するのは「瞋」である。目先のことのみにとらわれて、無気力と怠惰に流され、一生を台無しにするのは「癡」である。少々のことを鼻にかけ、自分をよく見せようとし、あるいは正しいものを受け入れないのは「慢」である。猜疑心旺盛で、自暴自棄になるのは「疑」である。
 身見とは、己れの身に愛着し、我見に執着することである。辺見とは、断見ともいい、生命の永遠常住を認めない考え方である。見取見とは、自己の見解に執着し、増上慢を起こして、劣っているものを勝れていると謂う考え方である。戒取見とは、因でないものを因と謂い、道理でないものを道理と謂う考え方である。邪見とは、因果律、三界の因果の理法を認めない考え方である。現在あるさまざまな思想が、多くこの五利使の範疇にあることは、明瞭である。因果律を認めず奇跡を信ずるキリスト教、生命の常住を認めず生命は物質の存在様式と立てるマルクス主義、さらに法華経を下す、念仏宗、真言宗、まるで幼稚この上ない因縁話で、無智の人をあやつる、最近の新興宗教等々、それらによって引き起こされた偏見は、ことごとく五利使である。
指導者の思考の誤りとその悲劇
 かくして、五利使の邪見にせよ、五鈍使の本能的なものにせよ、思想の乱れが、根本となって衆生濁が形成されるのである。これが「万民乱る」である。すなわち、万民乱るとは、衆生濁ことである。一般民衆の思考の乱れはさておき、指導者の頭の中が、鬼神によって乱され、狂乱し、偏見、邪見でうずまいていれば、一国の前途は完全に誤り、どんなに不幸な社会にしてしまうか、それは、考えただけでも恐ろしいことである。衆生濁の最悪の世界は戦争であり、虐殺し合う世界である。
 太平洋戦争当時の軍部の頭の中は、どうであったか、まさしく、人間の征服欲、物欲、名誉欲、権勢欲等の貪欲であり、阿修羅のごとき激怒の感情であり、驚くべき無智であり、高慢であり、猜疑心ではなかったか。そしてまた、神道のごとき低級思想に冒され、頑迷で偏狭な、狂気に等しい物の考え方になっていたのではないか。これ彼らの頭の中が、まさに悪鬼が乱れ狂う状態であったとえるであろう。これが国を破滅に導き、あの惨状をもたらした根本原因でもあった。
 また、スターリンの頭の中にもヒトラーの頭の中も、煩悩濁、見濁に冒されていたために、恐るべき大量殺戮をやってのけたではないか。まことに気違いでないかぎり、あのようなことができるわけがない。さながら頭作七部の態であり、狂乱し、錯乱した頭脳と絶大なる権力とが結びついたあげくの粛清であり、残虐であることは明らかである。
 しかして、今日のアジアにおける戦乱、とくにベトナム戦争の根底をえぐるに、そこにも、人間生命に内在する煩悩濁や見濁りがうずまいていることはいうまでもない。
日本を救う唯一の平和勢力
 日本は、現在、一往戦争なき、平和な社会である。だが煩悩濁、見濁は相変わらず黒々と日本の人々と国土をおおつているのである。政治も、教育も、その他の社会の営みがことごとく行き詰っているのは、まことに残念ながら事実である。
 政治一つを取り上げてみても、いかに濁りきっているかがわかるのである。悪徳政治家たちは、既成の権威にしがみつき、私利私欲にふけり、腐敗は慢性化し、派閥抗争に明け暮れ、民衆を忘れている姿は、嘆かわしいというより、怒りがこみあげてくるではないか。政治家とは、野心家とか、腹芸のうまい人の代名詞のごとく思われているのが実情ではないのか。
 さらに、一般民衆の姿も、あまりにも無気力であり、あるいは刹那的であり、焦燥と不安と動揺がうずまいているではないか。これ万民乱る姿であり、衆生濁といわずして何であろうか。
 しかして今日、戦乱からわが国土を守り、日本を支えている力は、ほかならぬ創価学会なのである。今日のきびしき世界情勢は、日本をけっしてその外に置くことを許されない。世界の対立の波は、日本に押し寄せていることは、きわめて明瞭である。これ、再び、日本がかつての二の舞をふんではならぬことを、実態があまりにもよく教えてくれている。
 そして、これを打開する道も、再び破滅へ導く恐ろしさも、ともに、ここに掲げられた経文が明確に示しているではないか。もしも、創価学会がなく、このまま日本の国が、ますます濁乱していくならば、私は、必ずや日本が悲惨な憂き目を見るに至ることをあえて断言しておきたい。それが仏法のきびしき方程式なのである。逆に日本の国の人々が、真に幸福と平和の方途を説ききった、大仏法を根本に、団結し、世界における唯一の平和勢力として、智慧と勇気とをもって臨むならば、必ずや、日本を永久に戦争の惨禍から守り、世界の民衆の幸福に貢献していけることを、心の底から叫んでやまぬのである。
賊来つて国を刧かし百姓亡喪し
 これは、かつての日本の国が経験した、いまわしき事実である。日本が他国から破られるのも「所詮万民乱る」ところよりくる結果である。歴史上国が滅びるのは、外部よりもむしろ内部からもたらされることは、明らかである。政治の腐敗、教育界、思想界の混迷、民族の生命の弱体化、これらが、むしろ国を滅ぼす本源である。今、日本は、まさしく「万民乱る」状態である。かつて停滞せるアジアが、植民地として大国に荒らされたのは生々しい事実である。今日のアジアの惨状も、実体はここにある。されば、このままでは、いつ、ベトナムの惨劇が日本に襲いかかるかわからぬではないか。この事実に、世の人々は一日も早く気づくべきである。特に若き清純なる青年が、これに眼を開かなくてはならないと思う。
臣・君・太子・王子.百官共に是非を生ぜん
 これ、国内の実情ではないか。現在は主権在民の時代であり、臣・君・太子・王子.百官の別はない。これはさまざまな社会とすべきである。大きくは国家と考えてよい。また、経済界、教育界、政治界等々と、とることもできる。また小さくは、一家、会社、地域社会等と考えてもよいであろう。「是非を生ぜん」とは、人々がそれぞれ、おのれの保身のために汲々として、相争うことである。互いに意見を交換し合い、建設し合うための討論でなくては、まったく対立し、憎悪し、激怒に燃えて戦うことをいうのである。
 一国を考えてみれば、右翼と左翼の激突があるのであろう。この両翼の対立は深刻であり、時としては、血なまぐさい殺戮すら行われる。これ「是非を生ぜん」ではないか。日本はまだよいとしても、アジア、中近東等においては、右翼と左翼との対立が、まことに、たえず流血の惨事を引き起こしている。これまた、人々の生命にひそむ見濁であり、煩悩濁であり、鬼神乱るる結果にほかならないのである。
天地怪異し二十八宿・星道・日月時を失い度を失い
 すなわちこれは天変である。昨今、とみに学者の間で、異常気象が叫ばれている。以下、和田英夫氏等の共著「異常気象」によってのべてみたい。特に、最近で、異常性を示したのは、昭和38年1月の気候である。これはわが国のみならず、世界全体にわたってあらわれ、地球上の気圧の分布なども、例年とはまるで違ってしまった。そのために、地球の自転速度が不連続的に変化した。文字どおり“地軸をゆるがした異常”を示した、とのことである。
 たとえば、平年の気圧は1016.3hPaが普通なのに、昭和38年の気圧は東京では、平均1004.2hPaで、平年より12.1hPaも低い。まさに何万年に一回という現象だという。さらに、太陽の黒点の変化も激しい、気象台長であった故藤原咲平博士は1949年に「天明のときの凶作は太陽黒点数の極大がすぎた、つぎの極小のときに始まり、次の極大に達してから止めを打っている。近々そのような時期に入るから警戒を要する」という主旨の論文を発表した。
 ところで、1957年に観測された太陽黒点数は、史上最大値で、1964年は、その後に起こった極小値である。その値は180年前の天明4年(1784)とまったく同じであるという。さらに太陽黒点数の月々の変化の模様がまるで天明4年ごろときわめて似ているところから、最近の太陽活動は、天明時代に似ており、まったく異常であるというのである。しかも、太陽の黒点数の極小期に冷害が起きやすいという統計的な事実は無視できないところである。また、事実さまざまな異常現象が起きた。函館では気圧が低いため、海面が上昇し、海水が逆流したために、雨が降らないのに、突如としてマンホールから下水が湧き出た。およそ雪など見たこともない「種子島」にも、38年1月25日の夜から雪が降り、また阿蘇山にも大雪が降り、最深積雪は1mを越えた。そのころ、アラスカでは雨が降っていた。まるで北と南の気候が入れ替ったような騒ぎだった。さらに38年(1963)1月は、北陸地方を中心にして豪雪があり、そのため40日間も交通が阻害された。また、この年の異常気象は、日本だけに起こったものではなかった。
 このころヨーロッパに寒波が吹きよせ、吹雪が荒れ狂い、自動車や飛行機の衝突、凍死などの事故が続出し、フランス、イギリス等で大量の死者が出た。ニューヨークでも猛吹雪があり、ハーレムで火事があったが、消防手のヘルメットから氷柱が下がり、ホースから出る水が空中で凍った。ロンドンでも100年来の寒さ続きとなった。ドナウ河が結氷して半月も船の運航が止まった。新聞には、こうした記事が毎日のように報道されたのである。また、前述のごとく火山の爆発も相次いで起こり、昭和37年の6月に焼岳爆発、十勝岳の爆発、8月には三宅島の大爆発、世界的にもバリ島のアグング火山が38年3月に大爆発、38年8月以降アイスランドの南西海岸付近で、地殻の割れ目に、海底からの火山爆発があった等々である。
 このように、太陽黒点が異常に変化したり、地球の自転速度が不規則に変化することが現実にあるのである。そして、こうした変化が人間社会に、絶大な影響をもたらすのである。まことに宇宙のちょっとした変化であても、大きな被害が生ずる。ましてや、この経文にあるごとく「二十八宿・星道・日月度を失い」という現象が、激しく起こるようなことがあれば、その人間に及ぼす影響はどんなに大きいか、測り知れないものがあろう。ある場合には、人類の滅亡もありうるのではないか。いまだこの現象は、あらわれず、宇宙の運行に異常をきたしていないが、経文に照らして、もし、末法の仏法たる三大秘法の大御本尊が流布しないならば、すなわち、創価学会がなければ、宇宙のリズムがこわれ、星道は乱れ、日月はその運行を狂わせることになることは明瞭である。
多くの賊起こること有らん
 宇宙のリズムに異常があれば、人間社会が乱れて、一国の中において、たえず争いがあり、特に国を滅亡に導くような人間が、数多くあらわれ、乱れ狂うのである。
 あの、昭和6年、9年、10年と続けて起こった、日本気象史上おそるべき災厄の年を思い起さずにはおられない。特に昭和9年はひどく、この年から翌年にかけて、北日本を襲った冷害により、東北六県は目も当てられぬ大凶作に見舞われ、西日本にも異常な旱魃が起きた。さらに、史上最大といわれる室戸台風は、死者2700名、家屋の全懐39000戸におよぶ猛威をふるった。このころ、大量の人身売買が行われた。時あたかも昭和初期の金融恐慌が吹きまくって、社会不安を呼び、やがて2・26事件を経て太平洋戦争へと向かっていったのである。
 今日においても、まさしく国を破滅に追いやるような賊人が、決して少なくない。国籍は日本にありながら外国にこびへつらい外国のゆうなりになって、侵略を許し、いたずらに国内の内部分裂をはかる徒輩は、まさにこれにあたろう。さらに、テロ行為や、暴力をもって人心を攪乱するのも、これにあたる。さらに、日本を戦争にかりたてようとする徒輩もこれである。国土の生命力、衆生社会の生命力が弱まるところ、必ず、内部分裂しそれを利用して、ますます人心を動揺させ、おのれの利益追求に没頭する奸物が出ることは、いつの時代でも、いずれの社界でも、いずれの国でも同様である。これ、あたかも人間の生命力が弱まるところに蔓延する病原菌のごときものである。先にも述べたように、もし今後において日本の国が再び滅びるようなことがあれば、それは内部からもたらされるものである。所詮、日本の民衆が、真に、民主主義と平和と幸福を掲げて、強く有智の団結を人材の宝庫とし、他国に「日本を攻撃したら自分たちの損になる」という思想を徹底的にうえつけることが大切である。しかも、主体性のある、真に力強き外交を行い、行き詰る世界をリードしていく以外に、日本の安泰も、世界の平和も絶対にありえにと信ずる。
指導者の福運
 また、同じく次に引用の仁王経の文は、指導者の福運論である。四条金吾殿御返事にいわく「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず」(1192
-02)と。いかなる智慧者であろうと、いかに才能ある人であろうと、いかなる権力をもつ人であろうと、ひとたび福運を失えば、敗北の人生を辿るしかない。
 よく、人は「あの人は運がいい」とか「運が悪い」という。だが、彼らの運・不運は、あくまでも、偶然に支配されたものであり、浮き草のようなものである。この経文に「我今五眼をもって明に三世を見るに一切の国王は…」とあるがごとくである。
 もし三世の生命を認めないとすれば、運・不運、幸・不幸の根本原因は、まったく不明のままになってしまうのである。ある人は、運・不運は問題でない。人は、努力しだいで、幸・不幸が決まるのだという。むろん努力は大切である。努力のない人生は無意味である。だが、努力だけでは幸福が築けると思うのは、錯覚である。人人は、それぞれの立場で、なんとか現状を打開あるいは発展させようと努力しているのではないか。だが、その努力が、成就しないところに悲劇があるのである。
 もし、いっさいが努力であるという人に言いたい。それでは、現在、不幸な人々は、みな努力しなかったからなのか。否むしろ、不幸であればあるほど、それこそ必死になって努力しているではないか。また、どんなに努力といっても、病弱であり、いかにもがき、あせってもどうにもならぬ人がいるが、これに対しては、いかに幸福への道を切り開いていけるのか。もし指導者にして、かくも真剣に、かつまじめにがんばっている人を、おのれの地位から、努力なき人と断ずるのは、民衆を侮蔑し、さげすむのも甚だしいではないか。
 或人は、環境決定論を唱え、環境がいっさいを決定するかのごとき説をなす。だが、これも大いなる誤りである。むろん環境の影響を無視したり、軽視したりするわけではない。だが、同じような環境に育つ二人の人間が、時としては、まったく違った運命になっているのは、どう説明するのか。さらに、環境が影響をおよぼす陰惨な家庭に育ったりしなければならないのはなぜか。さらに、生まれつき不具の人、生まれつき病弱な人は、なぜそうなったのか、それでも、あるていどまで生物学的に、それにいたるまでの過程は説明できるかもしれない。それでは、なぜそのような経過をたどらなければならなかったのか。ある人は、両親にその責任を負わせるかもしれない。では、なぜそのような両親のところに生まれなければならなかったのか。また、なぜ両親の責任を自分が負わなければならないのか。このように生命の物理化学的な現象のみを取り扱う科学では、解決できぬ問題があまりにも多くひそんでいるのである。また環境でいっさいが決定するという、主体性なき哲学では、それを解決できぬことは、明瞭である。所詮、三世の生命観およびそれに立脚した福運論にして、初めてこれらの疑問に対する解答を与えることができるのである。
 釈尊は十不善業の業報を次のように説いている。この世で多病また短命である人は「殺」の報いである。貧窮で失財の人は、盗みの報いであり、眷属不良で婦が貞実でない人は、邪淫の報い、身に誹謗を受けた人に誑惑されるのは妄語の報い、親類に離れ、親友にも捨てられるのは両舌の報い、悪声を聞き訴訟を起こすのは悪口の報い、人に信じられないで、言語が明らかでないのは綺語の報い、多欲で足りることを知らずに、いつも不足を嘆くのは、貧りの報い、人のためすきをうかがわれ、あるいは殺されたりすることは瞋りの報い、邪見の家に生まれて心諂曲なのは、愚痴の報いである。
 
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