|
|
「非二元」その体感・体験する世界
「現象」に「眼差し」を向けていると、「薄っぺら」な「平面的」なものに見え
てきている。軽蔑しているわけではない。このような感覚は「非二元」の感覚で
ある。様々な「現象」がエネルギーとして感知できるのだ。もちろん日常生活や
日常のことは何も変わらないが、「見る側」の感覚が変わってきているというこ
となのだ。
学生時代に「フッサールの現象学」を学んだが、当時その意味がなかなかわから
なかったが、今、振り返ると彼自身が「非二元」に近い体験をしていたのではと
思われる。ただ、その限界は「人間観」「人間感覚」という「枠」から離れられ
なかったという彼自身の現実があったということだ。「存在信憑」という概念が
「光合成」という「信(シン)作用」によるものであったことが不明瞭だったこ
とが上げられる。つまり「自分自身」が「現象の現われ」としての体感・体験が
希薄だったということである。対象化することによる相対的現象・現実の中での
「現象学」だったのである。思考・概念の「現象学」であり、ダイナミックに躍
動する「生命現象」ではなかったのだ。それは、また「自我機能」「自己機能」
「意識機能」の区別ができなかったとも言える。ヨーロッパの哲学的限界があっ
たと言える。
以前「現象」に「眼差し」を向けると見えて来る世界がある。と述べたが、「現
象」とは「生命現象」そのものを言い、それは仏法でとらえた生命論であり、池
田先生の生命論であることをお伝えした。あえていうならば「生命論的現象学」
とでも言えると、なぜならば全ての現象そのものは、「仏」の働き作用だからで
ある。「現象」をとらえる「眼差し」として「働き作用」を見ていかないと「わ
からない」ということなのだ。「了解」という体感がもたらされないからだ。
「生命論的現象学」を「仏の現象学」または、古今東西の「神」を「神の現象学
」として見ていく、その「働き作用」からとらえなおす時期にもきていると言え
よう。
つまり、こうした「現象観」「現象感覚」は、大いなる自然の体得に結び付くか
らである。
ちなみに今述べている事は「思考」という次元であり「非二元」の体感・体験す
ると、どうでもいい事なのだ。「体感覚知」されると自然にもたらされる現象で
もあるからだ。⇒「反転」を促すために、いろいろ述べるのは、閲覧者の方々に
「思考」「概念」によるアプローチが必要であるからだ。「パラドックス現象」
により「気づき」が生じるからである。
|
|