私事片々
2016/03/25〜
・「日本ファシズムは、すくなくとも日本人と社会との底流に奥深く根を下ろしたものであり、その特質はこのような底流に鋭いメスを加えることなしには解明されえないのであり、そのような解明なしに未来を企図することも許されないであろう」(神島二郎『近代日本の精神構造』第一部「天皇制ファシズムと庶民意識の問題」1960年)。この本はS君に紹介された。かれに教わるまでこのクニに「桃太郎主義」というのがあったのを知らなかった。知っていたら『増補版 1★9★3★7』に書いていたのだが。過日、介護認定の検査があって要介護2から要介護1になった。からだはわるくなっているのに。感覚異常。エベレストにのぼらなかった。(2016/03/25)
・夜、那須さんから大阪の写真展初日にいってきたと連絡あり。那須さん、赤阪さんたちのおかげだ。こちらは遠くで想像しているうちがハナ。今朝方か、インドネシアの木造の家にいた。3階建て。窓からみると、外の泥道を牛や犬があるいている。家畜の糞のにおいがただよってくる。わたしの家で見知っている男が見知らぬ女と寝ていて、男のほうがややバツがわるそうにおきてきた。わたしはとがめなかった。1階や3階に、現地の老人や子どもたちがなにするでもなくいたけれど、いたしかたのないことだとおもった。現地の女と寝ていたニッポンジンの男がだれだったかおもいだそうとしたが、終日わからずじまいだった。その3階の家でわたしはニッポンに電話しようとこころみたのだが、携帯電話の数字の突起(ゴツゴツしたボタン)を押しても突起がどうしてもおりず、電話は失敗した。0468……と押そうとしたのだが。あの3階の家をわたしはきらいではなかった。昨夜は安定剤だけで眠剤を飲むのをわすれた。エベレストにのぼらなかった。(2016/03/26)
・谷崎潤一郎のなんとかいう小説で「ぼくはあんたがきらいだ」という簡明なセリフがあって、なにかスッキリしていいなとおもった。谷崎ではなかったかもしれない。だれでもよい。ダフネにいった。サクッとJSFをしてもらう。エベレストにのぼった。麓に幼児、ベンチにその子の母親らしいバカ女がいて、わたしを不審者とみたか(そりゃそうだが)、あわてて幼児をエベレストからつれさっていった。気にせずエベレストにのぼる。犬ホテルの予約(2泊)をした。pacifismのつかいかたをかんがえる。いっぱんてきに、pacifism springs from the belief that nations do not matter, that "humanity is the great idea."とも言うけれど、オーウェルは“Pacifism is objectively pro-fascist. This is elementary common sense. If you hamper the war effort of one side, you automatically help out that of the other. Nor is there any real way of remaining outside such a war as the present one. In practice, 'he that is not with me is against me'.”と書いた。「pacifistが暴力を放棄できるのは、だれか他の者がかわりに暴力を行使してくれるからにすぎない」とも述べている。時代もある。オーウェルはリアルだ。Objectively the pacifist is pro-Naziとも記したことがある。pacifist = pro-Nazi!わたしはかつてそのことをあまり深くかんがえてはいなかった。いまにしておもえば、pacifistを自称するのは、あまりに安直で、敵前逃亡(のつごうのよい言い訳)に似るときがある。安倍でさえpacifismを騙ったりする。(2016/03/27)
・肩痛。焼きごて。焼き火箸。ひきつり。ねじれ。感覚異常。ダフネ東口店に。途中ハナニラが咲いていた。さかゑさんが目玉の大きな、おかっぱの女児といた。さっそくJSFを提案されるも、おかっぱが目をくりくりとしてじっと見ているし、はげしい肩痛でそれどころではない。ので、おことわりし、かわりにといってはなんだけれど、ポラノンをすこひばかりわけてもらへなひか、ことさらにみじめったらしくたのむ。さかゑさん「あーらまあ、いま切らしてるのよ。犬用のポラリノンならあるけど。ははは。ドーベルマンとか大型犬用。どうせ基本はおんなじよ。むだ吠えしなくなるわよ。はは……」。目玉の大きなガキが暗がりでだまって見あげている。目が青くひかる。店内のだれかが、さもとくいげに「およそ、持っているひとはさらに与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていないひとは、持っているものまでも取りあげられるであろう」と言っている。なんだかいらいらする。「マタイ13:12よ」とさかゑさん。とても冷静だ。「JSFでじっちゃんのしわくちゃチンチン、無償アップグレードしなひ?」とひつこい。目玉のガキがわたひにむかい「バカ」と声をかけてくる。「マル、マル……」と、すかさずわたしの口が応じている。女の子はたしかにインドネシアのわたひの家(焦げ茶色の木造3階建て)にいた子だ。わたしのなした子かもしれなひのだ。肩と手が痛ひ。筋や皮膚がぴくぴくかってにひきつる。ポラリノンをもらう。さかゑさん、ありがたう!大型犬用の抗うつ薬でひとの視床痛がなおるもんだろうか。ひきつりが。ねじれが。ポラノンもポラリノンも基本はおんなじだという。犬のニセの多幸感とひとのニセの多幸感は、質的に同一か。だが、それをわかることが重要なのではない。痛みが消えるのが大事なのだ。鎮痛がニセでもニセでなくても。エベレストにのぼった。だれもいなかった。さらにテラスを反時計回りで10周。ヨーゼフ・ロートのあの小説は、岩波文庫の『聖なる酔っぱらいの伝説』(池内紀・訳、全5篇)の第一番目にかかげられている。ナチス台頭前夜をえがいた、じつにたぐいまれな傑作だ。1923年作。かつて舐めるやうにして読んだ。いま、すべてはドブ、コエダメ同然。2015も2016も、なくていい。(2016/03/28)
・ロンドンのハースト&ブラケット社が刊行したヒトラー著『わが闘争』(英国人エドガー・ダグデール訳 MY STRUGGLE)の再版本には、〈本書からの利潤はすべて赤十字に寄付する〉とうたった新しいカバーがつけられていたという。1930年代に同社から出版された『わが闘争』無削除版は、ジョージ・オーウェルによれば、ヒトラー擁護の立場で編集された。「訳者はその序文と注で、あきらかにこの本の残忍さを弱め、ヒットラーをできるかぎり好意のもてる人物に仕立てようとしている」(オーウェル「書評――アドルフ・ヒットラー著『わが闘争』1940年)。オーウェルはおどろくべき率直さで書いている。「わたし(オーウェル)は、自分が一度もヒットラーを嫌いになれなかったことを、はっきり言っておきたい」「……わたしは、もし手の届くところまで近づければぜったいに彼(ヒトラー)を殺すだろうが、それでも個人的な敵意を抱くことはできまいと考えてきた」。後知恵ではない。ナチスドイツによる「ザ・ブリッツ」(The Blitz、ロンドン大空襲、1940年9月〜41年5月)のころの実時間にそう記している。そのことにおどろく。pacifist、pacifismをpro-Nazi、
pro-fascist呼ばわりしたオーウェルには、そう言うだけの骨があった。国会前で戦争法施行賛成のハナクソテモがあったらしい。えっ、安保法制反対?あれが?エベレストにのぼらせていただきました。(2016/03/29)
・オーウェルのヒトラー描写の卓抜さといったらない。「それ(ヒトラーの顔)は憐れみをさそう犬のような顔というか、耐えがたい虐待に苦しんでいる男の顔である。やや男らしいところはあるものの、無数にある十字架上のキリストの絵の表情にそっくりなのだ。そしてヒットラー自身が、自分をそういう目で見ていることはまちがいない。……彼は殉教者であり、犠牲者なのだ。……われわれはナポレオンにたいする時のように何となく、彼は運命と闘っている、勝つことはできまいが勝ってもいいではないかといった気持ちになる。こういうポーズはきわめて魅力的なものだ。映画の主題の大半はこれなのである」(小野寺健・訳)。安倍だってときどき「憐れみをさそう犬のような顔」をし、ひどく傲岸な目つきをするかとおもえば、知的劣等感にさいなまれる者のもうひとつの顔、すなわち殉教者面をよそおう。じつのところ、多少見識のあるひとびとは、与党の大物から国会前のハナクソテモ(あれはデモとはいえまい。ニュースピーク的にいえば、せいぜいがtemo=temonstration)参加者まで、安倍を内心、見くだしていた。安倍はじぶんがひそかに見くだされていることをよく知りつつ恨みを燃やし、それをパッションとしてのしあがってきた。だが、報道の自由度世界61位という栄えある極東の弧状列島ジャパンには、安倍を「憐れみをさそう犬のような顔」「知的劣等感のかたまり」「貧相な下痢男」と書けるジャーナリム(とその自由、その発意、その創意)はない。かくして「人間は、すくなくとも時によると、闘争とか自己犠牲を望むものだし、太鼓とか旗とか観兵式などが好きなのは言うまでもない。経済理論としてはともかく、心理学的には、ファシズムとナチズムはいかなる快楽主義的人生観よりはるかに強固なのである。おそらくスターリンの軍国主義的社会主義についても同じことが言えよう」という、オーウェル1940年の言説は依然、一読にあたいすることとなる。われわれは当面、イチオクソウカツヤク=i筋障害)社会で汚物をひりちらかして生きるほかはないのだ。安倍をみくびってはならない。共産党をみあやまってはならないように。おなじくオーウェルに「素面のときはコミュニストなのに、酔ったとなると熱烈な愛国主義者になる」男がでてくる(『パリ・ロンドン放浪記』)。しかも「手に負えない排他的な愛国主義者」だ。男たちはインターナショナルもラ・マルセイエーズも春歌もうたう。声たからかに。心をこめて。労働歌とキミガヨをおなじ口でうたうのとさしてかわらない。よひよひがはげしく、エベレストにのぼりはしなかったのであった。(2016/03/30)
・エベレストにのぼらず。(2016/03/31)
・エベレストにのぼらなんだ。(2016/04/01)
・どうしたわけか、The Dancer UpstairsのこととかBaader Meinhofのこととかを、タールの海でおぼれるようにして、しばらくぼんやりとかんがえていた。前者はSendero Luminosoの話だから、できごとと時空間をいっしょくたにはできないと言えば、たしかにそうだ。ただ、まったくことなる両者は、げんざいの描かれ方、イメージのされかたにおいて、ほぼおなじい。滑稽なほどに。凶暴、凶悪、冷血、短絡、無知、浅薄、無個性、無思考、思索ゼロ、そろいもそろってヘビースモーカー。ステレオタイプな世界観・人間観・国家観の、それらのおなじくステレオタイプな表裏のどちらかに、われわれは意味のない染み(番号)として張りついているようにしいられている。この間もっともよく学習したのはだれだろうか?おそらく国家(の暴力装置)と資本だろう。いつまでもいつまでもひとびとは代をついでアホになっている。「テロにも戦争にも反対!」と叫ぶのに脳みそは1ミリグラムもひつようではない。「政治は、かかわるわるすべての人間をパーにする」と言ったのはガレル(『自由、夜』)だったか。悪がどこまでも凡庸なように、善も悪と見まがうほどそらぞらしく反動的であり、つまり両者にはまったく境界がなくなった。人間はどこまでもどこまでも、いつまでもいつまでも、敗北と隷属の過程を、笑いながら(ときに誇らかに!)あゆんでいる。にしても、「ドイツの秋」(Deutscher Herbst)にせよ、伊の「鉛の時代」にせよ、この時間のどこかにまだそれらの痕跡がのこっていないわけがない。 いまだってYears of Lead の最中ではないか。つづくのだ。さらにさらにひきつづくのだ。leadの雨が降るだろう。鉛が降る。横なぐりに。斜交いに。そんなことを大阪で話したわけではない。だが、感じているらしいひとはたしかにいた。アントナン・アルトー『後期集成』はおもしろい。飽きない。不意にすくわれる。けふ、最悪の感覚異常のなか、エベレストにのぼった。(2016/04/08)
・エベレストにのぼらなかった。(2016/04/09)

・キジバトが踊り場の梁に巣をこしらえた。親鳥が抱卵中らしい。いつもどこかの子どもか管理人が巣をこわしてしまう。こわすことはない。ダフネの帰り、親鳥はまだいたのだが、携帯のシャッター音を聞きとがめて、飛んでいった。わるいことをした。巣は管理人や子どもがこわすのでなく、卵がかえらなかったり雛がそだたなかったりすると、親鳥がこわすこともあるらしい。そのとき親鳥はどのような意識なのか、はかりがたい。ダフネの洗面所にはめずらしく「もろ肌脱ぎのルツ」がいてサービス中だったのである。ドアごしにただいまJSFですか、と問えば、モアブ人はみごとなヌッポン語で「ううん、このスケベオヤジいつもVLFなの。めっちゃひつこいのよ」。わたしは、そこにナオミもいるかきいたのだ。ルツはなにかくわえたままなのであらう、くぐもった声で「んんん、ナオミちゃん、いねよ。……オラ、(ナオミが何処か)シャネッチャ」と答えてくれた。しかたがない、JSFもVLFもなしでダフネをでて、エベレストにむかう。麓に私服がなんにんかいたが、べつにいいじゃないですか、かまわずのぼる。成功。ムスカリはほとんど枯れる。あるかたからつまらぬ質問があったので書いておく。日本共産党機関紙赤旗によるインタビュー要請・ドタキャン事件についてのわたしの態度はげんざいも0.01ミリも変わっていない。すこし変わったとすれば、この党に以前よりさらに失望したことぐらい。徹底的にダメなのは、この党が相も変わらず、党の内外からの都合のわるい質問、批判を無視、圧殺していることだ。それかあらぬか、君たち日共幹部は、脱いではいけないパンツまで脱いでみせて、みたくもない腐ったイチモツをさらけだしはじめた。選挙目あてのファッショ諸派との野合、天皇制にかんする重大な路線転換。わたしの質問には、公式にも非公式にも、なんの回答もなかった。その間、わたしはすこし学んだかもしれない。「あったこと」を「なかったこと」にしてしまう、「集団芸」の薄気味わるい巧みさと、暗黙のうちにみんなでそれをやりとげてしまう手法において、あんたがたはむかしから国家権力あるいはファシストと大差ないのだな、と。けだし情けないのは、みながそれを台本どおりやりぬいて、およそ例外ということがないことだ。『動物農場』の世界をまだはりつけているあなたがたに言うべきことばはない。そのようなことは万万一にもないだろうけれど、日共が政権をとったら、わたしはそれを(もちろん独りで)転覆してみたい欲望をどうしても禁じえなくなるだろうし、あなたがたはそうした衝迫を「反革命」とよんでまちがいなく弾圧してくるだろう。赤旗のインタビュー要請・ドタキャン・沈黙・無視のプロセスには、権力に目がくらんだパルタイの、どうにもならない知的荒廃がありありとみえる。したがってもう書くにもあたいしない。わたしの立場は0.001ミリも変わっていない。正義ぶるスターリニストは、バカな右翼より、よほど手がつけられないときがある。『1★9★3★7』が、あの連中のあいだでは、事実上の「禁書」となっているらしいことを、わたしは光栄におもふ。ハネケのDVDを1本注文した。注:JSF=just short fuck/VLF=very long fuck(2016/04/10)
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