道徳教科化で日本の国際競争力は低下する
道徳が教科化される
2018年度から道徳が教科化されます。道徳心に成績をつけるということです。国を動かしているおじいさまたちは、若者の道徳心の欠落が日本の存立を脅かしていると思っているようです。
三菱重工が2011年に受注した大型客船「アイーダ・プリマ」の建造は、当初の予定からは1年遅れで引き渡しとなり、その特別損失は累計で1800億円を超えたといいます。沈没しなければいいのですが。
ようは、現場で働く人が足りないから、外国人労働者を大量に雇い入れたけれど、日本的な「あうんの呼吸」で現場を管理しようとしたため、現場が大混乱に陥ったということのようです。
日本国内でこういった問題は、これからも起き続けるのでしょう。
多様性をはぐくめない原因は・・・
日本人はもともとこの手の多様性が苦手です。生来のものもありますが、学校での意味のない規律の強要とならんで、道徳の果たしてきた役割が意外に大きいのではないかと思いました。
読者のみなさんは、道徳なんてまじめに教えているのかとお思いになるかもしれませんが、学校の先生たちはみなおおまじめに道徳について語り合っています。私のように道徳をはなから信じていない人間は、「中沢先生の子供たちが落ち着かないのは道徳をちゃんと教えてないからだ」と言われます。しかし、道徳の授業は、子どもたちに、偏った一方的なものの見方をさせるのに大いに貢献しているというのが私の見立てです。
たとえば、昔あった教材に「ごちそうを食べた上着」というものがあります。有名な話なので、ご存知の方も多いと思います。「あるパーティーに呼ばれた農夫が、畑仕事のあと着替える時間がなく、作業着のままで行きました。客全員に無視されたので、しかたなく家に帰って正装に着替えました。それでもう一度行ったら、今度は全員がにこやかに彼に話しかけました。そこで彼は怒り心頭して、自分のジャケットに「ほら、食べな、このご馳走はお前のために出されたものなんだよ」と言って食べさせました。」というものでした。
ようするに「人を服装で判断するな」と言うことなのです。この時、「TPOをわきまえない服装をする人間は冷ややかな目で見られても仕方が無いと思うのです」などという意見を子供が言おうものなら、その授業は失敗の烙印をおされてしまいます。つまり筋書のとおりに子供たちを誘導できる先生が”よい先生”とされています。先生の間でも建前では道徳には正解はないと言うのですが、じっさいは正解があるのです。
道徳に多様性はいらない
つまり、道徳ですら(道徳だから?)、ひとつの正解を求めるのです。「いろんな意見がありますね、多様性を認め合いましょう」などという授業は許されないのです。
こんなことを子供の時分から、10年近く教えられれば、人々のふるまいに画一的な正解があるのではないかと刷り込まれてしまうと思います。”空気”を読むようになります。それが外国の労働者と接するさいに、思い込みで自分たちと同じように考えて行動すると期待してしまい、無用なトラブルになるのではないでしょうか。これは、多様な人材と協業していかなくてはならない時代には、かなり罪深い指導ではないでしょうか。
道徳が教科化されれば、先生たちはさらに委縮し(サラリーマンですから)、一方的なものの見方をさらに強要することでしょう。それが、国際化しなくてはならない日本人の意外な蹉跌になるように思えます。政治家のみなさんは、いまさらながら家父長的な価値観を子供たちに植え付けたいのでしょうが、その前にアイーダ・プリマの現場のように沈没しなければいいのですが。
中沢良平(元小学校教諭) 教育日記
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