裏社会の道徳を意味する「陋規(ろうき)」という言葉について記事を上げたところ、私の言葉足らずなところがあり真意を伝えきることが出来なかったようです。
そこで、再び「陋規(ろうき)」について記してみます。
かつて社会の裏側にも道徳があった
一昨日投稿した記事「陋規:「ネットビジネス」は法律さえ守れば何をしてもいいのか?」の概要はこうです。
社会には表と裏がある。そして、社会の表が道徳によって秩序が保たれているように、かつては社会の裏側にも道徳すなわち「陋規(ろうき)」があった。
いわゆる「ネットビジネス」の人々も、我が国の先人の裏社会の人々の「陋規(ろうき)」に習うべきではなかろうか。
そんな内容です。
いわゆる「ネットビジネス」の人々や、社会の裏側はこの世から消えてなくなるべきというのではなく、表も裏も秩序が保たれた状態が望ましいということです。
個人にも表側と裏側がある
さて、前回は社会には表側と裏側があると言いましたが、これは個人にも当てはまるのではないでしょうか。多かれ少なかれ人間には誰にでも表と裏があるものです。
そして、一人ひとりが裏側を持っている以上、自分の中の裏側の秩序を保つ「陋規(ろうき)」を一人ひとりが持っていたいものです。
しかし、自分の裏側を認めたがらない人、見て見ぬふりをする人がいます。正義を強く主張し、非の打ち所のないような善人オーラを全身から放っているようなタイプの人です。
具体例:善人オーラを全身から放つタイプ
ご自分の裏側を認めようとはしないから、自分の中の「陋規(ろうき)」も未熟。そんな人が正義に突っ走ると危険極まりない。
世界平和というキラキラ正義を主張するあまり暴力に訴える矛盾した行動をとる人々を、最近都心などでよく見かけますが、これなど自分の中の「陋規(ろうき)」が未熟な典型例かも知れません。
正義を主張する人が陥るダークサイド
自分の中の「陋規(ろうき)」が未熟なのは、残念ながら私も同じです。
私は、いわゆる「ネットビジネス」の中でも大御所と言われる人々の一部とつながりがあるのですが、彼らの立派なところは決して他者を悪く言ったりはしません。
いたずらに自分の正義を主張するようなこともありません。
彼らは自分を正義と思わないその一方で、自分の中の裏側を常に直視しているが故に「陋規(ろうき)」が成熟しているのかも知れません。
一方で私は、いわゆる「ネットビジネス」の人々を揶揄することが少なくありません。自分の立場は正義であるという前提のもと、彼ら「ネットビジネス」の人々を茶化す。平気で悪く言う。
この手の薄っぺらな正義こそ、自分の中の「陋規(ろうき)」が未熟な何よりの証拠です。
これまで私は正義を主張するほどに、自分の正義の耐え難いほどの薄っぺらさが悩みの種でしたが、その薄っぺらさの原因は「陋規(ろうき)」の未成熟にあったようです。
正義と狂気は紙一重と良く言いますが、正義に走るほど自分の中のダークサイドから目を背けてしまうその結果として「陋規(ろうき)」が熟さず狂気に走ってしまうのかも知れません。
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