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 「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称された真田信繁(幸村)の初陣はいつだったのか――。これまで北条氏への「小田原攻め」(天正18年=1590年)とされてきた通説に対し、それより5年早い「第1次上田合戦」だったとする新説が浮上している。真田家にとって宿敵・徳川軍との最初の直接対決が幸村の初陣、という歴史ロマンを感じる内容だ。

 雑誌「信濃」(信濃史学会)などに論文を発表し、新説を提示したのは、元上田市立博物館館長で長野県東御市在住の歴史研究家、寺島隆史さん(65)だ。

 江戸時代に作られた「上田軍記」や真田方の史書「真武内伝」などでは、第1次上田合戦に幸村(信繁)も参戦し、活躍したと記されている。一方、現在の新潟を拠点とした大名・上杉家の史料「景勝一代略記」などによれば、合戦前、幸村は上杉氏の真田方の人質として春日山城(新潟県上越市)に行ったとされる。そのため、研究者らの間では「人質だった幸村は上田に帰ることができなかった」とされ、参戦していない根拠と解されてきた。

 幸村が人質として上杉側に入ったのは1585年6月と考えられる。第1次上田合戦は同年閏(うるう)8月2日に始まったとされる。

 この時、幸村はどこにいたのか?

 寺島さんが注目するのは、合戦勃発の3日前、上杉方の海津城(長野市松代町、後の松代城)の城代・須田満親が真田の家臣・矢沢頼幸に宛てた書状だ。頼幸は幸村に付き添って上杉側に行ったとされる人物。書状には「今度御証人(人質)として御幼若の方越し御申し、痛み入り存じ候」とある。