関ヶ原合戦後の慶長六年には本多忠勝が桑名城主となり、城郭を修築し、町割を断行して、民政につとめ、桑名藩創業の名君と仰がれました。 元和四年松平定勝が城主となってからは、松平氏十一万石の城下町として栄えました。 さらに江戸時代には熱田の宮から海上七里、東海道五十三次の要衝でもあり、桑名は港町・宿場町・城下町として中世近世を通じて栄えたのです。 時雨蛤は、はじめ煮蛤(にはまぐり)と称した蛤の煮付けで、遠方まで土産として持ち帰るために、蛤をよく煮しめて製造したものです。『絵本名物桑名の時雨蛤の巻』によれば「時雨蛤の味わひなをさらにして諸々の土産としてあらそい求むる諸人多くして見世先ことににぎわし」とあります。 この時雨蛤は、桑名城下今一色で多く製造され、桑名城主より宮中をはじめ将軍へも毎年献上されました。これは『桑名志』、『桑府名勝志』に詳しく記されています。 |
![]() 貝屋新左衛門はこの煮蛤に「時雨蛤」の名をつけて看板をあげました。貝屋新左衛門であったので「貝新」の屋号が生まれ、人々から親しまれてまいりました。 藩主のお引立で、仕出方御用達を仰せつかり、御用商人として桑名藩の為に大いに尽くし、宮中や将軍への献上も毎年行なわれました。 嘉永三年には、次のような苗字御免の特典を得て、当時の商人として最高の栄誉を得ることができました。 |