「被爆した最後の館長」が思い…10日開幕
「人類と核は相いれず」
10日に広島市で始まる主要7カ国(G7)外相会合に、特別な思いを寄せる男性がいる。2006年まで原爆資料館の館長を務め、「被爆した最後の館長」となった畑口実さん(70)=広島県廿日市市。在任中、各国要人を資料館に案内し、核兵器のむごさを伝えた。11日には核を保有する米英仏の外相が初めて資料館を訪れる。「人類と核は相いれない。展示を見れば分かってもらえる」と力を込める。
1945年8月6日、原爆が投下された。畑口さんは、27歳だった母チエノさんのおなかにいた。自宅は爆心地から20キロ近く離れていたが、チエノさんは広島鉄道局で働く父二郎さん(当時31歳)を捜して4日後、入市被爆。職場近くで父の焼け焦げた懐中時計とベルトのバックルを見つけ、そばにあった遺骨とともに自宅に持ち帰った。翌年3月、畑口さんが生まれた。
母は姉2人と畑口さんを育てるため、必死に働いた。親が来ない小学校の運動会はどうしようもなくさみしかった。記憶のない「8月6日」に父を奪われ、翻弄(ほんろう)されたと感じた。胎内被爆者だとは周囲に知らせず、21歳で受け取った被爆者健康手帳は机の奥にしまった。広島市職員になったが、資料館にはほとんど行かなかった。
転機は51歳だった97年。人事異動で原爆資料館の館長に命じられた。海外での核実験のニュースを聞くにつれ、「館長の私が、誰よりも核廃絶を訴えなければならないのではないか」と考えるようになった。父の墓から遺品の懐中時計とバックルを取り出し、海外の要人を案内する時に持ち歩いた。真剣に聞いてくれそうな人には遺品を見せ、父のエピソードを語る。核廃絶への思いが伝わると、「やっていて良かった」と思った。
00年に米国で開催されたNPT(核拡散防止条約)再検討会議の前、議長を務めるアブダラ・バーリさんが広島を訪れた。父の遺品を見せると沈黙し、目が真っ赤になった。「あなたの話を聞いて感動した。会議を成功させたい」と語り、畑口さんが胸に付けていた広島平和文化センターのバッジを持ち帰った。その年のNPT会議は「核兵器廃絶の明確な約束」を盛り込んだ最終文書を採択している。
リーダーが変われば、政治が変わることがある。「核兵器廃絶に向けて必要なのは、人を心の底から突き動かすこと。それができるのはヒロシマとナガサキだけ」と指摘し、「外相会合では、これまでに出たどんな取り決めよりレベルの高い、具体的な核廃絶へのロードマップを示してほしい」と語った。【竹下理子】