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開戦工作

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 2月13日(木)17時24分40秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://rekishijyoho.seesaa.net/article/21005688.html その3より

開戦工作 その1

http://rekishijyoho.seesaa.net/article/20953026.html

関連記事:開戦工作 その2

http://rekishijyoho.seesaa.net/article/20978730.html

宗教戦争を起こす計画 その1

http://rekishijyoho.seesaa.net/article/19690969.html

宗教戦争を起こす計画 その2

http://rekishijyoho.seesaa.net/article/19777188.html

宗教戦争を起こす計画 その3

http://rekishijyoho.seesaa.net/article/19784417.html

宗教戦争を引き起こす計画 その4

http://rekishijyoho.seesaa.net/article/19793074.html

背後に隠れて操り人形の糸を引く

http://rekishijyoho.seesaa.net/article/20517692.html

南北戦争の遂行はロンドンで執り行われた

http://rekishijyoho.seesaa.net/article/20816501.html

ユダヤ人と彼らの嘘について

http://rekishijyoho.seesaa.net/archives/200611-1.html

http://rekishijyoho.seesaa.net/archives/200612-1.html

共産主義を動かす秘密勢力

http://rekishijyoho.seesaa.net/article/22818750.html

パラサイト内部の敵~中国

http://rekishijyoho.seesaa.net/article/21401343.html

開戦工作――ゾルゲ事件の失われた環(ミッシングリンク)その3

●ゾルゲ自白調書とマッカーサー

 ダグラス・マッカーサーについては、次のような興味深い話が伝えられている。「ヒストリカル・レヴュー・プレス」という英国のウェブサイト(www.ety.com/HRP/rev/pearl_toc.htm)に掲載されている「真珠湾――あらゆる共同謀議の母」という記事の一節である。

「ハワイは交信を分析し、空母部隊が北方洋上にいると報告したが、驚いたことに、報告を受けたマッカーサー司令部は、11月26日、29日、12月2日と三回にわたって空母部隊は南支那海にいるとの虚報を打電した。NSA(米国家安全保障局)がいまも説明できないと述べているこの偽情報の真の動機はハワイ攻撃を隠蔽するためであった。メッセージを打電したのはアイオワに存命のデュアン・ウィットロックである」

 次は、1941年12月7日(米国時間)、すなわち真珠湾攻撃当日の対応である。

「9時間後にマッカーサーの空軍が不意打ちを食らい、フィリピンで消滅した。パールハーバーのニュースに対する彼の反応はまったく尋常ではなかった。午前中、自室に鍵をかけて閉じこもり、ブレレトン空軍司令官に会うことを拒否し、陸軍省が指令した台湾の日本軍攻撃さえ拒否した。マッカーサーは三つの矛盾した命令を出し、午前中の大半、飛行機を地上につなぎ止めておいた。マッカーサーはレーダーを用いて120マイル、100マイル、80マイル、60マイルと日本軍機を追跡させていたが、最終命令を出したとき、敵機は20マイルに接近しており、その間、ずっと飛行機を地上につなぎ止めていたのである。戦略的にみて、世界に所持する米軍重爆撃機の半数が破壊されることは真珠湾の海軍の被害よりもはるかに重大である。マッカーサーは軍事史において最大の失策をおかしたか、それとも彼の軍隊が破壊されるのを黙認せよと命じられていたかのどちらかである。もしも史上最大の失策であったならば、彼はなぜ譴責を免れ、指揮権を維持し、その後すぐに四つ星と名誉勲章〔戦闘員の「犠牲的殊勲」に対し、議会の名において大統領が親授する最高勲章〕を得たのかに注目すべきである。ゴードン・プランゲ〔『トラ・トラ・トラ』の著者〕は、『大統領が司令官たちに秘密を打ち明けて相談しなければ、司令官たちを説得して敵が制約されずに続けられるようにしなければ、大統領は日本軍の攻撃を成功に導くことができただろうか?』と述べている」

 マッカーサーは戦後、「ゾルゲ自白調書」に接して心から驚いたようだ。それは、ウィロビーの『上海コンスピラシー』に寄せた彼の序文にはっきりと示されている。

「ウィロビー将軍の著書『上海コンスピラシー』は、リヒャルト・ゾルゲ事件を取り扱ったもので、本書は今日行なわれている世界的規模の共産主義の破壊活動および反逆行為を鮮明に描いている点で重要な意義をもつものであると信ずる。
 われわれの日本占領期間中、軍情報部は日本警察の協力を得て、日本内外の共産主義勢力に対する警戒と監視の任務遂行上、若干の民間業務を行なったが、その対象の一つにリヒャルト・ゾルゲを首謀者とするソ連スパイ団に関する事件があった。この事件は、諜報の発展、技術およびその方法において成功をおさめた一例である。この共同謀議に加担した人間は支那、日本、米国に根を張り、その活動期間は1931年から50年にまで及んでいた。
 ワシントンに送られた本件に関する調書は、数百万語の多くにのぼり、写真原板、複写および図表等、参考物件の数も無慮数百に及んでいる。本事件は、米国の法律家によって再審議され、確認され、さらに目下上院および下院の国内安全および非米活動の両委員会によって取り上げられている。
 ゾルゲ事件は、単に東京において終始した局部的なものではなく、ソ連の支那を中心とする極東謀略全体に関連しているものであって、世界的規模の共同謀議を背景として考察されねばならない。またゾルゲ・スパイ団のもっとも活躍した上海は、世界制覇を目的とする狂信的共産主義者の温床であった。今日の支那の完全赤化へと発展したゆえんである」

●蒋介石の日本人軍師

 先にニューヨーク・デイリー・ニュース紙が「1941年10月にソ連の高級スパイ、史上最大のスパイのリヒャルト・ゾルゲが、真珠湾は60日以内に攻撃されるだろうとクレムリンに打電した」と報じていたと述べたが、それを側面的に裏付ける資料がある。
 黒田善治(青山和夫)の著書『謀略熟練工』(妙義出版、昭和32年刊)には、こう記されている。

「〔1941年〕9月25日、王の所に世界の命運をきめた暗号電報が上海中継で東京から送られてきた。
 それは、
 『南方派遣軍総司令 寺内寿一
  第十四軍 本間雅春
  …………………………』
 各編成の師団と師団長、参謀長の名前まで全部入っている。ただし、この電報には特別な附記があった。
『これは最後の電報である。この情報はソ連と中国だけに知らせる。』
 いわずと知れた日本の南進軍の軍編成表だ。
 王は蒋介石に提出すると同時に、英米大使館に自ら持参して説明した。カー大使は大いに喜んだ。だが米国大使館は、みむきもしない。米大使館付の最高武官に、ともかくワシントンに送るよう依頼したが、
『こんなにうまん作った情報は、なおさらワシントンに送れない』
 と、はっきり拒絶した。しかし問題は緊急中の緊急だ。それで蒋介石の親電にしてルーズヴェルトに打った。……
 いうまでもなく、これはゾルゲが打ったものだ。ゾルゲが日本の発表通り極東赤軍やコミンテルンに属していたとは、わたしには信じられないふしがある。だが、ゾルゲが発信したのを受けていたのは、上海の顧高地グループだったのは、確かなことだ。王の対日情報は世界一だったが、それは上海から送られてくるゾルゲ電報が主で、あとはわたしの対日判断を使っただけだ。……
 王は開戦の時期を問いあはせた。12月8日と返電があった」

「12月8日」と非常に具体的である。ここでは王がいつ開戦の時期を問いあわせ、いつ「12月8日」と返電があったのか明記されていないが、日本の南進軍の軍編成表が打電されてきたのが9月25日で、そのあとすぐに問い合わせたのだから、10月中に返電されてきたことはほぼ間違いないだろうし、先のニューヨーク・デイリー・ニュース紙の記事とも符合する。

ところで、この黒田善治という人物はなに者だろう。『謀略熟練工』の巻末に著者紹介があり、あわせて重要な情報も含まれているので、ご紹介しておこう。

「家は作州津山藩、家康指名の附け家老、祖父は青年時代脱藩して尊王運動に従事、七卿落ちを先導した。維新後一時藩政にもどり、児島高徳の社を復興、のちに東京に移り平凡に生涯をおわる。この関係で三条、久世等と宮廷の事情は少年時代から詳しい。
 1907年12月末に生れ、近くにあった中学に入ったが、それが杉浦重剛の学校だった。明大中退、青少年頃は考古学と人類学に心をうちこんでいたが、勉強中に歴史哲学にふれ、独自の古代史を研究しているうちに、偶然亡命中の郭沫若氏と知りあった。佐野袈裟美が私の論文をみて連絡してき、その紹介で無神論同盟とその外郭団体である唯物論研究会に入り、主として古代社会を分担した。この団体は行動団体であったので前任者の逮捕後自然のうちに本部員となり組織を再建した。無神論団体としては世界的にIPFがあり、当時日本のはソ連をしのぐ活動をしていた。もっともIPFは戦争中に解体したので、今はない。
 戦争中ソ連や中共等を恐れずに論争したのは、このIPFの関係に立っていたからで、また昭和七年頃鹿地亘が勝手に作家同盟を解散さしたとき、コップで鹿地査問会議を召集したのは私だった。
 ペンネームは色々ある。古代研究では佐久達雄、万葉研究では根津君夫、反戦運動では香港で川内、インドシナでは林秀夫、中国では青山和夫、IPFではKとか№4だった」

 この一文のポイントは「IPF」であるが、いまのところ不明である。
 戦後になって実際に黒田善治と面談したことのある渡部翁は『攘夷の流れ』のなかで彼を蒋介石の軍師と呼び、さまざまな暗躍ぶりを紹介している。たとえば、こういうことがあったという。

「米軍の日本本土攻略は、最初は沖縄の次に中国本土に上陸して国・共軍と合流し、日本の支那派遣軍を掃蕩してから日本本土に迫る作戦であった。その上陸地点で中共軍はいち早く対米合流を行う用意に、八路軍の一隊を延安から長駆広東方面に出動させていた。昭和二十年二月にヤルタ会談があり、南海では米軍のフィリピン上陸が始まり、日本国内への都市空襲が激しさを増した頃、朝日新聞に『南海の防衛』という写真を入れた記事が載った。重慶でこの記事を見ていた黒田善治は、日本の本土決戦準備がその頃から急いで始められていることを察知して、すぐにその記事をアメリカに電送させたのである。それによって米軍は中国本土上陸計画を止め、直接日本本土を突くことに変えたのである」(49ページ)

 黒田善治は松本重治や尾崎秀実と並ぶ大物売国奴だったことがわかる。なお、このすぐあとに興味深いことが書かれているので、あわせて紹介しておこう。

「その当時ライシャワー博士は、重慶のOWI〔米戦時情報局〕のフィッシャー所長のもとで諜報活動をしておった。ライシャワーは以前、京都大学で浜田青陵博士のところにいたことがあり、浜田博士の弟子であった黒田とは気があった間柄であった。八幡・京城・東京・鞍山の爆撃に際して撒かれた『桐一葉』というビラは、ライシャワーが書き、黒田が日本文を見たものだという。日本に講和を勧めたビラであった」

 のちの駐日アメリカ大使ライシャワーその人である。松方正義の孫娘の春子を妻にしていることはすでに述べた。
 かくして、日本は敗北すべくして敗北したのである。

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