賢者の知恵
2016年04月09日(土) 松尾秀哉

ヨーロッパの華やかな小国・ベルギーがなぜ「テロの温床」になったのか

自治と共存の伝統はいったいどこに…

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〔PHOTO〕gettyimages


文/松尾秀哉(北海学園大学教授・ベルギー政治史研究)

3月22日、ヨーロッパの小国、ベルギーで連続テロが起きた。死傷者は300人を超えるとされる。テロという手段に改めて憤りを覚えると同時に、犠牲になられた多くの方々、ご遺族にお悔やみ申し上げたい。

まだ昨年のパリ同時テロ事件の記憶も新しいなかで、フランスの隣国ベルギーの首都で、なぜテロが生じたのか。筆者自身もよく知る場所が破壊されたという報道を観たショックから十分に立ち直れてはいない。

今後捜査が進み、新しい事実も発見されていくだろうが、現時点の情報を基に、ベルギーの現代政治を調べてきた者として考察してみたい。

ベルギーの「最大の問題」

ベルギーはフランス、オランダ、ドイツ、ルクセンブルクと国境を接し、海を渡ればイギリスにも近い「ヨーロッパの十字路」である。

1830年にオランダから独立したが、それまでにフランス、スペイン、オーストリア、ネーデルラント(現在のオランダ)など時の覇権国がこの地を支配してきた。人口はおよそ1100万人。東京都程度の人口規模で、面積は日本の関東地方ほどの広さの小国だ。

首都ブリュッセルは、この国のほぼ中心部に位置する。国民全体の1割に当たる110万人程度が暮らす。第二次世界大戦後、欧州統合が進められるなかで、ドイツやフランスの間に位置するこの地にEUやNATOなどの国際機関の本部機能が置かれるようになり、「ヨーロッパの首都」とも呼ばれるようになった。

この国が抱えてきた最大の問題が言語問題である。1830年の独立の時点で既にフランス語を話す人びととオランダ語を話す人びとがいた。生まれついての多言語国家である。

ベルギーの独立戦争は、フランスの革命思想に憧れて自由と自治を求めた人びとが中心となったが、当時の周辺大国は、革命思想をベルギーで食い止めるために、オランダ語を話す人びとが多く住む地域を併せて独立を承認したと言われている。

ベルギーの言語事情(黄色=オランダ語圏、赤=フランス語圏、赤黄=オランダ・フランス語併用圏、青=ドイツ語圏)〔IMAGE〕Wikipedia

二つの言語はベルギー独立以来、対立してきた。当初は独立戦争を主導したフランス語話者が中心となって国家形成が進んだが、それに反発したオランダ語話者たちが「フランデレン運動」を展開した。しばしばベルギーはその対立に苛まされてきた。

その結果、20世紀前半には、ベルギーは地域によって公用語が異なる国となった。地図の北半分がオランダ語を公用語とするフランデレン地方。南半分がフランス語を公用語とするワロン地方。そしてフランデレン地方に今回のテロが起きた首都ブリュッセルがある。ブリュッセルはフランデレン地方にあるが、フランス語話者が多く住んでおり、例外的に両言語を公用語とする「両語圏」とされている。

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