生物の先生の一言
高校生のときの話です。
「生物」の先生が授業中、皆に向かって、
「私は、教育者ではないので、皆さんを教育するつもりはありません。ただ単に「生物」の知識を切り売りしているだけですからね」
と言いました。
なぜ、そんな話をはじめたのか、全く覚えていないのですが、学校の先生が、自分は教育者ではないと言い切ったので、とてもインパクトがあり、そこだけは鮮明に記憶しているのです。
この先生、いい感じのおじいちゃん的な風貌、よく言えば「枯れた」感じだったのですが、普段からやる気は全くありませんでした。
相当の年齢でしたので、いわゆる「でも・しか先生」の類だったろうと思います。
*高度経済成長期では、「学校の先生でもやるか」とか、「学校の先生しかなれない」という人が教師になるケースがあり、そんな人たちのことを「でも・しか先生」と呼んでいました。
今の教師になる難しさからは、なかなかイメージしにくいことなのですが・・・、教師になった動機が動機だけに、レベルの低すぎる先生が、それなりの数、いたのです。
兵庫県の片田舎にあるごく普通の公立高校、そして、ほとんどの生徒は受験科目として選択しない「生物」という科目です。
生徒はもちろんですが、先生も授業に熱が入らないのは、仕方のないことかもしれません。
古びたノートの内容をひたすら板書するだけ。おそらく、毎年毎年、何十年も同じ内容を黒板に書き続けてきたのではないかと思います。
クラスを担任することなく、部活にも関わっていなかったので、学校では特にこれといったことのない日々を過ごされていたのでしょう。
とはいえ、たまに、憂さ晴らしのように、上に書いた皮肉っぽいことを言うので、生徒からは人気があったのですが・・・。
時間の切り売り
さて、先生は自分が行っていること、つまり、教師の仕事を「知識の切り売り」と言っていました。
ですが、知識そのものは減っていないので、むしろ、「時間の切り売り」と呼ぶのが正しいかと思います。
「時間の切り売り」、仕事には、多分にこの側面があります。
一定の時間を拘束され、その間、与えられたことをこなしていく・・・、特に時給いくらのアルバイトをしていると、働いた時間がそのまま稼ぎになりますので、より実感できます。
そして、仕事が作業的であればあるほど、また、自分の考えや工夫などといったものが反映されないほど、「やらされ感」が強まり、仕事がつまらないものとなる。
すると、「時間の切り売り」という意識が強まっていくように思います。
逆に言えば、受動的な要素を能動的に取り組めるようにできれば、「やらされ感」は少なくなりますので、仕事に対する見立ては変わるでしょう。
拘束される時間は同じでも、切り売っていると感じる時間は少なくなるのではないでしょうか。
能動的に取り組む
では、どうやれば能動的に取り組めるようにできるか。
それには、自分で仕事のやり方を変えることと、自分の気持ちを変えることの2つがあると思います。
前者は、物理的に仕事のやり方を変えるということですから、組織的な問題があって実現困難なケースが出てきます。
後者は、自分が内的に変わることですが、大きな動機付けが必要であり、さらに難しいと言えるでしょう。
ただ、片一方だけを急に大きく変えようとするのではなく、両者を同時並行的に少しずつ変えるのであれば、やってやれないことはないはずです。
次回は、これについて私の考えを記したいと思います。
それでは、また。