カードの高騰とゲームデザイン
2014年3月10日 ゲーム論ここ1年ほどで特に話題に上る事が多くなったカードの高騰だが、この問題はなにも最近になって明るみになったものではない。例えば『おこんないでね』(1996年刊)というアナログゲームを取り扱った漫画には、その時点で既に「Black Lotusが$200もする」という話題が登場する。現代の価格と比べればむしろ破格ではあるのだが、カード1枚に2万円の値が付くのは十分な異常事態だ。カードの高騰自体はマジックが世に出た直後から始まっているのである。
つまり此度の問題の真因は「高騰」の部分にあるのではない。Black Lotusがこの20年で10倍以上の値上がりを見せても、それ対して異を唱える人間は全くと言っていいほど存在しない。しかし《沸騰する小湖/Scalding Tarn》に5桁の値が付けばあらゆる方面からクレームが付く。これらを同じ問題と捉えてはならない。
ゲームデザインの観点から見ると、これはプレイヤーとコレクターの混在が引き起こす問題と解釈すべきである。マジックはTCGというジャンル名が示すとおりゲーム性とコレクション性を同時に有するが、この二点が喧嘩をする事によって問題が発生しているのだ。
コレクターにとって「収集」とは攻略すべき課題である。高額であり発行枚数が少なく、容易には手にし難いレアカードを自分だけは所有している。そのような状態こそがコレクターにとっては誇るべき価値のある状態だ。言い換えるならば、カードを手に入れる事そのものが目的なのである。そんな彼らにとっては越えるべき山の高さ(すなわちカードの価格)すら、事を為した後には自身の誇るべき業績となり得る。
しかしプレイヤーは違う。プレイヤーにとっては収集はあくまでも構築のための手段であり、
自分達が攻略すべきは「デッキ構築」や「試合」だと考えている。それ故、ゲームに敗北するならともかく、ゲームに参加するための準備で躓くのは耐え難いと感じるのである。
今まではプレイヤーとコレクターの需要は上手くすれ違ってきた。プレイヤーが欲するのは主に発売されたばかりのカードセットであり、プレイするのはスタンダードが中心。一方コレクターは絶版となった入手困難なカードをファイルに収めて満足感を得る。ところが昨今EDHやモダンのサポートが整備されると、絶版市場へコレクターではなくプレイヤーが積極的に参加を始めてしまった。需要は一気に高まり供給のないカードは軒並み値を上げ、少々の再録では到底市場が要求する必要量に追いつかない有様だ。プレイヤーはコレクターの土俵で戦わざるを得なくなり、それが不満に繋がっている。
この問題は「ゲームの焦点は絞るべし」という教訓を与えてくれる。複数の要素を同時に満足の行くレベルに仕上げるには多大な努力が要るだろうし、ましてそれらが相反するのであれば尚更である。プレイヤーにはプレイヤーの、コレクターにはコレクターの課題を別々に与えるべきだ。
つまり此度の問題の真因は「高騰」の部分にあるのではない。Black Lotusがこの20年で10倍以上の値上がりを見せても、それ対して異を唱える人間は全くと言っていいほど存在しない。しかし《沸騰する小湖/Scalding Tarn》に5桁の値が付けばあらゆる方面からクレームが付く。これらを同じ問題と捉えてはならない。
ゲームデザインの観点から見ると、これはプレイヤーとコレクターの混在が引き起こす問題と解釈すべきである。マジックはTCGというジャンル名が示すとおりゲーム性とコレクション性を同時に有するが、この二点が喧嘩をする事によって問題が発生しているのだ。
コレクターにとって「収集」とは攻略すべき課題である。高額であり発行枚数が少なく、容易には手にし難いレアカードを自分だけは所有している。そのような状態こそがコレクターにとっては誇るべき価値のある状態だ。言い換えるならば、カードを手に入れる事そのものが目的なのである。そんな彼らにとっては越えるべき山の高さ(すなわちカードの価格)すら、事を為した後には自身の誇るべき業績となり得る。
しかしプレイヤーは違う。プレイヤーにとっては収集はあくまでも構築のための手段であり、
自分達が攻略すべきは「デッキ構築」や「試合」だと考えている。それ故、ゲームに敗北するならともかく、ゲームに参加するための準備で躓くのは耐え難いと感じるのである。
今まではプレイヤーとコレクターの需要は上手くすれ違ってきた。プレイヤーが欲するのは主に発売されたばかりのカードセットであり、プレイするのはスタンダードが中心。一方コレクターは絶版となった入手困難なカードをファイルに収めて満足感を得る。ところが昨今EDHやモダンのサポートが整備されると、絶版市場へコレクターではなくプレイヤーが積極的に参加を始めてしまった。需要は一気に高まり供給のないカードは軒並み値を上げ、少々の再録では到底市場が要求する必要量に追いつかない有様だ。プレイヤーはコレクターの土俵で戦わざるを得なくなり、それが不満に繋がっている。
この問題は「ゲームの焦点は絞るべし」という教訓を与えてくれる。複数の要素を同時に満足の行くレベルに仕上げるには多大な努力が要るだろうし、ましてそれらが相反するのであれば尚更である。プレイヤーにはプレイヤーの、コレクターにはコレクターの課題を別々に与えるべきだ。
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