安重根(アン・ジュングン)が韓半島(朝鮮半島)併呑(へいどん)の中心人物だった伊藤博文を狙撃した当時の状況について、1911年10月24日付のロシア・サンクトペテルブルクの新聞はこう報じた。「ハルビン駅で伊藤と随行員3人を拳銃で狙撃し『コリア、ウラー(ロシア語で万歳の意)』と叫んだ後、ロシアの憲兵に逮捕された。狙撃直後、ロシアと日本の随行員たちは気が抜けて逃亡した」
安重根は人生最後の40日間、約200点もの遺墨を残した。その末尾には「大韓民國人 安重根 書」と記し、手形を押したが、薬指と小指の長さがほとんど同じだった。これは11人の同志と共に「断指同盟」を結成した痕跡だ。安重根は1910年3月26日午前10時、旅順監獄で死刑を執行され、31年の生涯に幕を下ろした。青春を犠牲にした大義名分は何だったのか、また(伊藤博文暗殺を)決行しようとした意志はどこから生じたのか。彼は遺墨で「欲保東洋先改政略時過失機追悔何及」と記した。「東洋を守るためには日本が政略から改めるべきだ。時が過ぎ、機会を逃せば公開しても無駄だ」という意味だ。
日本の検察官が「伊藤博文の射殺は人倫に反することではないか」と聞くと、安重根は「よその国を奪取し、人の命を奪おうとしている者がいるにもかかわらず、それを傍観するのは、もっと大きな罪なので、除去した」と主張した。彼は独立のために人生を犠牲にし、家族も苦難の道を歩んだ。伊藤博文を暗殺してから111日後、安重根に対する死刑が言い渡され、それから40日後に執行された。遺族は1910年10月、ロシア沿海州(現・沿海地方)に移住した。翌年4月には安昌浩(アン・チャンホ)や李甲(イ・カプ)の支援を受け再び引っ越したが、そこもやはりロシア領だった。日本の追撃はその地まで及び、水遊びしていた7歳の長男は、日本の密偵が差し入れた毒入りの菓子を食べて死亡した。家族はまた引っ越しを余儀なくされ、農業を営んだ後、1920年に中国・上海に移住した。
「正しいことをして受けた刑なのだから、卑怯に生き永らえようとせず、大義に従って死ぬことが親孝行だ」と語った母チョ・マリアと、国債報償運動(日本の植民地化が進んでいた1907年から08年にかけ、国民の募金で国の借金を返済し、国権を回復しようとした運動)に参加した妻キム・アリョの死は、その日付すらも分かっていないという。安重根が面会に来た弟に対し「私のなきがらは、ニレの木が生い茂るハルビン公園に臨時に埋葬した後、国権が回復したら故郷に移して葬儀を執り行ってほしい」との遺言を残したが、それから106年がたった今、遺骨すら捜せずにいる。たとえ短い人生だったといえ、永遠に人々の記憶の中に生き続ける方法はないのだろうか。そのためには私たちが自ら「大韓国人」と名乗ってはどうだろうか。