最近仕事の傍らにNetflixで昔見た映画を流していて、クリストファー・ノーランの『ダークナイト』を久々に見た。
この映画は都合10回くらい見てる。と書くと、さぞかし『ダークナイト』が好きな人間だと思われそうだけど、さにあらず、ぼくはあんまりこの映画を評価してない。じゃあなんで繰り返し見ているかというと、理解ができなかったからだ。個人的にはそこまで名作とも思えないのだけど、世評では00年代のベストワン級に評価されている。このギャップはなんなんだろう? それを埋めるために繰り返し見ていて、最近は多少理解できるようになった。
『ダークナイト』を見ていて一番よく判らなかったのが、ジョーカーはなんであんなに万能なんだろう? ということだ。街中の人間を殺して回ると宣言している状態で、あんなにド派手なメークアップをしている人間が、病院に入り込んだり警察のなかに入り込んだりと、やりたい放題している。いくら警察が腐敗しているとはいえ、こんなことが可能なのだろうか?
そもそもこの世界のなかで、米軍はどこにいるのか。ジョーカーは軍隊でも倒せないようなマグニートー的超能力者ではなく、むしろ思想犯である。物理的な実力がというよりも、悪の哲学がゆえに人を狂わせ、腕力よりも狂気に依拠して犯罪を遂行していく。これはこれで魅力的なのだけど、こんだけ街中が混乱しているのに軍隊が鎮圧に乗り出してこないのはおかしいし、ジョーカーの息がかかっていない特殊部隊を送り込んで逮捕に乗り出せばすぐに倒せるんじゃないか。そんなことを思っていた。
で繰り返し見たり、その後アメコミ映画を色々と物色しているうちに、この映画には以下のような暗黙の前提があることに気づいた。
- ゴッサムシティとは外部とは隔絶された壁のなかの世界、あるいは抽象化された世界であって、そのなかには弱い警察と強いバットマンしかいない。
- ゆえに悪がはびこっており、バットマンが自治に乗り出す必要がある。また、デントのような正義の象徴が長年求められている。
- 上記の前提は映画内で直接的には描かれないので、リアリティラインがどこに引いてあるかが判りづらくなっている。
こういう前提で見ると『ダークナイト』でなんでジョーカーがあれほどやりたい放題できているかが理解できる。世間の大半の人は無意識のうちにこういう前提を受け入れていて、私のごとき半可通が「ここはおかしい」「これどういうこと?」といちいち疑問に思っていたというのが、評価の乖離の真相なんだろうと現在は理解している。将来的にこの評価が変わるかもしれないけども。
以下別項。市民と犯罪者がクルーザーの上で爆弾のボタンを押すや押さぬやのにらめっこをするシーンがある。あそこで「ジョーカーの罠に屈しなかった市民の良心は偉い」という結論が一旦提示されるものの、結末で「やっぱり市民は信用できないから、俺が悪をかぶるぜ」みたいな結論に至っちゃうのはなんでなんだぜ。あそこは善良な人が、正しい理屈を理路整然と述べながら悪人側の船を吹き飛ばしていたほうがよかったんじゃないかなー。関係ないけど、「俺がかぶるぜ」ものだと『メタルギアソリッド3』のザ・ボスが泣けましたね。人生最高の10分間にしよう!(本当に関係ない)